本

『寝るまえ5分のパスカル』

ホンとの本

『寝るまえ5分のパスカル』
アントワーヌ・コンパニョン
広田昌義・北原ルミ訳
白水社
\1900+
2021.9.

 タイトルだけで惹かれてしまう。しかし白水社。一筋縄ではいかないような気がする。実物を知らないので、図書館に入った情報を頼りに手にしてみた。
 予め背景を言っておくと、これはラジオ番組の内容である。すでに著者は、モンテーニュについて、このような放送をこなし、形にしている。
 その後、今度はパスカルとなった。サブタイトルには「パンセ入門」とあるが、パスカルの『パンセ』にしっかりとしがみつきながら、しかし話題も引用箇所も自由に思いのままに、聴取者に提供していく。きわめて自由な、まさにこの放送自体がエッセイのようである。
 フランス文学やフランスのエスプリものに慣れた人にはおなじみなのだろうが、私のようにドイツ的なものに馴染んでいる者からすると、体系哲学ではないなど、ずいぶんとタイプが違う印象があり、少し場違いの部屋に紛れ込んでしまったのではないか、と心配する。
 それはまた、パスカルに対して私がもっている知識が、断片的に過ぎないからであったかもしれない。学校には行かずに父親から英才教育を施され、天才を恣にし、16歳にて数学史に残る業績をなし、確率論への仕事は現代的なものともなった。物理学的にはヘクトパスカルに名を残したように物理学者として気圧の存在を明らかにした。二項定理でもよく知られるパスカルの三角形はいろいろな現象をも説明してくれる。パスカルの賭けという、信仰上の確信についても有名である。
 哲学的には、「考える葦」はこの上なく有名な言葉であるかもしれないが、幾何学的精神という熟語について、大学院試験のときに私は書けずに、自分の知識の穴を突かれて恥ずかしい思いをしたことが個人的に重く残っている。
 妹との関係、この『パンセ』の成り立ちについても編集上の問題があること、そんなことも気になるが、やはり信仰者としては、1654年のあの「回心」が素晴らしいと思うばかりだ。但しかのWikipediaには、この回心の記述が全くない。少なくとも「回心」という言葉やそれを明らかにする説明がないのだ。きっと回心ということについてよく分からない人たちにより記されているのだろうと思う。
 1654年の11月23日にそれが突如として起こる。パスカルの死後、着ていたものに縫い込まれていたものに書き付けられていた、その時の感動が何であったのか、私たちには分からない。が、信仰者として私は、分からないわけではない。神との決定的な出会いがあり、これでパスカルの人生観が変わったことになる。
 本書は、このような、私でも知るようなことについても、もちろんよく語っている。パスカルの言葉もよく引用され、パスカルを様々な角度からスポットライトを当てるように紹介していくことになる。歴史的な出来事などもふんだんに、しかし至極当たり前に知られているよというふうに、盛り込んでくる。ひょっとすると、フランスでは、このくらいのことは皆当然のこととして知っているのだろうか。
 今回読んでいて「隠れたる神」を示されて、そうだ、それはあったな、と改めて知るような思いすらしたし、非常に高度な、あるいは詳細な、パスカル解釈が展開されていく。こういうことがごく自然にラジオ番組となるのかということに、驚きを禁じ得ない。
 私にとりひとつ大きなポイントとなった回があった。第17章で、パスカルの「イエス・キリストにおいてあらゆる矛盾は一致する」という言葉に出会った時に感動した。パスカルがそう言っていたことについては意識していなかった。私は15世紀のニコラウス・クザーヌスの「反対の一致」は知っていたので、それと通じるものだと感じた。それは抽象的な哲学思想の一つであるような気がしていたが、クザーヌスにとっても、パスカルと同様に、「イエス・キリストにおいて」であったのではないかと強く思わされた。私は罪にまみれていたが、イエス・キリストに出会い救われたならば、その意味での罪は消える。なかったことになる。惨めでどうしようもない自分というものがあると共に、神の栄光を受けた歓喜の自分というものがある。それらは矛盾するではないか、というのが普通の見方である。だが、イエス・キリストに置いて、これらは一致した存在としてここにある。ここにいて、よいのである。
 なお、著者はバリバリの理系出身だそうである。それでこれだけの文化的教養を以て楽しませ、また感心させてくれるのだから、およそ理系とか文系とかいう分け方には、意味がないのだということの、ひとつの証左となるのではないか、とも思えるのだった。




Takapan
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