本

『パパラギ』

ホンとの本

『パパラギ』
岡崎照男訳
早川世詩男絵
学研プラス
\1300+
2021.7.

 児童書版となっている。訳者の岡崎照男氏は、1981年にすでにこの『パパラギ』を日本に送り、話題になった。今回、若い人たちに読んでもらいたいと、それをリメイクしたのだという。内容を変えたのではないというが、もしかすると、語彙として分かりやすくしたのかもしれない。比較してないから実のところどうなのか知らないが、たぶん若い世代が読んでも困らないものとなっているだろうと思う。
 私は、かつてラジオ朗読で聞いたこともある。そのころそれを読んだかどうか、記憶はない。しかし内容を知っているかと問われれば、知っていると答えただろうと思う。
 南太平洋のサモア諸島から、ツイアビという族長が、ヨーロッパを旅した。その体験を、島の人々に語った内容を、ドイツのエーリッヒ・ショイルマンがまとめたものとして、本書ができたという。「パパラギ」とは、彼らの言葉で「空を破って現れた人」を表すという。ヨーロッパ人が船でやってきた時、白い帆が、空に白い穴が空いたように見えたのだという。そして白人のことを、パパラギと称して話しているのだという。従って本書は延々と、「パパラギは……」という調子で展開している場面が多い。
 訳者は、私たち日本人もこのパパラギである、という説明を、本編が始まる前に付け加えている。最初の本は1920年の発表であるが、百年経ってなお、今の日本の姿をここに当てはめるに相応しいのだ、という見解である。
 無駄に衣服を着ること、住まいは石に閉じ込められていること、物というのは自然から恵まれるものであるはずなのに、パパラギは物を作り出し、自分たちのことを神さまだと考えるようになっていったこと、そんなことが熾烈に突きつけられる。むしろ外部からの視点というものだから、素朴な言葉であるだけに、辛辣である。
 狭く取り囲んだ領域にあるものを自分のものだと言い張るが、みな自然のものではないのか。丸い金属と強い紙があれば何でもできると思い込んでおり、それにとりつかれた病気にかかっているように見える。機械という奇跡をもっているが、愛情を失ってしまっている。職業というのがあるが、自分はわずかなことしかできなくなっているんじゃないか。
 どこへ行くにも時間が短いほうがよいと思い込んでいるが、それで節約したつもりの時間のためにまた次の忙しさを埋めるようになっており、人生を味わうことなく、要するに時間を少しも手にしていないのだ。エンデの『モモ』は、もしかするとこういうところからヒントを得たのではないかと思わせるような見方である。だが、
 こうした辺りまでは、私もまた、そうだよな、と頭を掻きながら読んでいく程度でよかったが、最後に痛烈なのが来た。「知識」だ。くだらないことばかり躍起になって知識として得ているしそのために努力しているが、そんなものが何の役に立つのか、問いかけるのである。印刷・本・教育、そうして誰もが疲れている。
 パパラギよ。彼は最後に叫ぶ。この南の島に、近づくな。どうにもならない知識や文明を手に、近づくでない。そんなものは必要のないものだ。自然から受けたもので十分だ。その自然の中で、愛しあう心があれば幸福なのだ。
 細かな描写は、ぜひ本書でお楽しみ戴きたい。なによりイラストが実に可愛い。族長も、すっかり子どもである。子どものサモア人が、都会の中のあちこちに顔を出して、妙なものだと覗き込んでいるイラストが、なんとも言えずよい。見出しのフォントもとてもよい感じだ。
 あまりにも痛烈な批判は、皮肉のようにしか見えないことがある。実際、これはすべてショイルマンの創作だろうという説がある。恐らくそうだろう。だが、これは児童書版である。そんなことはどこにも書かれていない。この批判は、内部批判であったかもしれないが、外から見たものとしても十分通用するような、新鮮な輝きをもっている。確かに巧い。南の島からの視点で、きっとよいだろうと思う。
 百年前のヨーロッパで言われていたことだが、百年後の今でも実によく通用する。驚くべきことだ。人類は、ちっとも進歩なんかしていないのだ。いや、この無駄や空しさの路線を、一層突き進めているだけである。
 ちょっと別の視点から、同じ物を見ることにより、新たな見方ができる。新たな発見ができる。当たり前でそれしかないように思い込んでいたことが、そうでないことができるのではないか、という気持ちにさせられる。私たちは、もっと自由になれるはずだ。哲学というのは、このように別の角度から物事を見る視点を得ようと、遊ぶことであるのかも知れない。但し、へたをするとそれはツイアビに、「だから知識は無駄だというのに」と呆れられるかもしれないけれども。




Takapan
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