本

『宗教改革の神学』

ホンとの本

『宗教改革の神学』
北森嘉蔵
新教出版社
\700
1960.3.

 価格など参考にもならない。半世紀以上前の発行だ。本書を探すきっかけになったのは、ある北森嘉蔵が本を多く著しているが、分かりやすく書いたものが多く、神学書と言えるのはこれ一冊ではないだろうか、といった説明を読んだからである。ではその堅いものをひとつ読んでみよう、ということで探して送ってもらったというわけである。
 北森氏というと、神の痛みの神学で世界的に有名な日本の神学者である。独自とまで言ってよいのかどうか分からないが、掲げた問題提起は、西欧の神学者にも大きな刺激を与えた。なかなか人が言い出せなかった視点を表立って出してくるというのは、勇気の要ることではあるが、なるほどと思わせるものがあるならば、与える影響は決して小さくはない。
 こういうわけで、この神学色の濃い本も、神の痛みの考えをこめて論じてくるのだろうかと構えたが、そうではなかった。真っ向から宗教改革の思想を、それも綿密な資料の比較参照により、そして一定の枠組みでの明晰な論理とが通り、非常に読みやすいものであった。特別な知識を前提とすることなく、与えられた資料から、そして著者の与えた思考枠から、読み進んでいくことができると思ったのである。
 もちろん、ある程度の思考訓練は必要かもしれない。慣れでもいい。用語にこめられている背景知識が全くないと、確かに何を言っているのか分からないかもしれない。かなり抽象的な用語が飛び交い、神学的議論も特別な解説なしに持ち出されてくる。ただ、それさえクリアできれば、読みやすいと言いたいのである。それは実のところ、著者の頭の中で問題点や論拠が、きれいに整理されているからにほかならない。書き手がよく分かっていないときは、もやもやとした論述になってしまう。
 まずはルターの神学という第一部。何が問題点であるのかはきっちり提示する。神の義と言うが、義と見なされることと、義となっていくこととの二つの道があることを伝え、当時のカトリックの考え方とルターが見出して対立させた考え方とを対比させる。それが、教義的な様々なところに影響するから、それぞれのフィールドでどう理解されるかも細かく検討される。
 後半というより後の三分の一ほどであるが、カルヴィンの神学が第二部を形成する。宗教改革の意義や概観についてはルターの章で十分述べられているから、カルヴィンとルターの違いと、現代のプロテスタント神学の環境の中にいる私たちが、この二人の考え方をどう受け止めていけばよいのかが考えられる。とくにカルヴィンの神学においては、躓きとなるのが予定説(著者は預定説という表記をとる)である。神が何もかももう決めているのであれば信仰とは何か、私たちは何をしても無駄ではないのか、という疑問が当然湧いてくるからである。しかし、その点も私はすっきりとした説明がここにあると思った。「功なくして」救われるということを根本的に述べようとしたときに、この預定説の説明が可能になる、というのである。人間の状態を私たちは勝手に価値判断し、人間が決め、人間が裁こうとする。どうしても、そうしてしまう。だが、人間はそれを決めることはできない、人間が価値判断をしてひとの運命を決めるのではなくて神なのだ、という点を根底にもつからこそ、それは福音なのだというのである。
 もちろん、事はそんなに単純には終わらない。著者は当時強い影響を与えていた現代神学者たちの考えをも縦横に検討しながら、どう解釈していくか、また自分はどう受け取るかを自問しながら論を進めていく。
 特徴的なのは、見かけの表現でイメージを膨らませないことで、著者は「と」の論理を盛んに言う。AとBという言い方を私たちは盛んにする。信仰と行為、などというように。このとき、AとBとが対立する概念であるとして、横並びに位置するものと普通捉えがちである点に注意を促すのである。そうとは限らないであろう、と。全くその通りである。存在と時間というハイデガーの「と」もまた独特の理解の中で置かれていることを私たちは学んでいる。本書で盛んに言われることは、AがAとBの両方のフィールドを含むような形、あるいは止揚したあり方で支配するという捉え方があるということである。信仰と行為にしても、信仰か行為か、あれかこれかという選択肢しかないのではなく、信仰が行為をもたらすというか、信仰がより優位に、あるいは根本原理としてあるからこそ、このような言い方がなされているし、また私たちは一見対立のようにしか見えない現象をそのように捉えて考えてみようというのである。
 もちろん、ただ一元論的に収束すればよいというものではない。カトリック的な捉え方に警告を鳴らしながら、著者はキリストがすべての中心、原理として支配しているという構造を掲げるために本書を構築してきたのかもしれない。その意味で、信仰の優位というプロテスタント的原理こそが最高であるという、どこか前提のようなものをどうしても感じられてならないのである。
 私はプロテスタントの立場に立ちながらも、果たしてそこは本当にそれでよいのか、という考えももっている。聖書のみ、信仰のみ、というのは確かにプロテスタントが掲げた抵抗的原理である。歴史の中で一定の役割を果たしてきた。しかし、聖書が、ではなくて、聖書のみ、ということが本当に公理なのであろうか。公理としてよいのであろうか。カトリックへの対抗馬として出されたこの原理も、それを偶像としてはならないと思うのである。私はそのような自由性を保ちつつ、聖書と向き合っている。これは本書とは関係がないが、あまりにもプロテスタント万歳という形で論が根拠づけられていることについて、私なりにプロテストしてみた、というだけの話である。




Takapan
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