『小野村林蔵全集第一巻』
小野村林蔵全集刊行委員会
新教出版社
\5000
1979.3.
三浦綾子の教会の牧師であった。そして三浦綾子に洗礼を授けたという。それを知っただけで、私はこの牧師の説教が知りたくなった。三浦綾子は、真っ直ぐな信仰を持っていた。その話の端々にも、教会で教えられたことが登場する。特に、聖書の入門や聖書からの罪や救いについての著作には、そうしたことが多々記されている。ということは、この小野村牧師の説教がそのように活かされているということに違いないのだから、牧師が教会員のためにも綴った文章を初め、対面したいと思うのであった。
すると、立派な装丁の凄い全集があると分かった。全部で三巻。1979年の発行時で、三巻が15000円というから、只事ではない。一巻が500頁あるとはいえ、それが5000円というのは、現代の相場に近いかもしれない。もちろん、古書としてしか出回っていないので、いろいろ探すこととなった。実はいまAmazonではこれは扱われていない。しかしいまや、ネット検索により、全国の古書店の在庫が分かり、それを送ってくれる。なんとも便利な時代になったものだ。すると、買う人があまりいないのか、かなり安い価格で売られているのが見つかった。多少送料がかかるが、送料を含めても、1冊分の半分にも満たない料金である。
などと、本書の内容には関係のないところでだらだら話しても面白くないだろう。
これは「委員会」による編集であるが、その編集活動に、私は最大限の敬意を払いたい。よくぞこれだけのものをつくったものだ。当時としては価格が非常に高かっただろうが、それ以上の手間暇を掛けて製作されたのだということが分かる。
この第一巻には、初期のものが集められており、内容はおよそ「論文・説教・論説」となっている。
時代としては、1935年頃までのものが収められている。小さな本となっているものもあれば、『泉』という月刊個人伝道誌の文章も集められている。最大三千部ほど売れたそうだから、個人伝道誌としてはなかなかのものだと言えよう。小野村牧師は、1883年に生まれ、22歳にてキリスト者となる。植村正久牧師に学んだ東京神学社を1909年に卒業し、翌年按手礼を受ける。1918年に札幌に赴任したのは、高倉徳太郎牧師のあとであったという。そして43年間、札幌で牧会を勤め上げたそうである。
本書は、太平洋戦争以前のものである。当時としての制約もある。時代的には、確かに天皇への敬意は並々ならぬものが書かれている。だが、頑固一徹と言うべきか、信仰を軽んじる声に対しては実に厳しい。そう、それぞれの論評は、かなり厳しいのである。その余り、後には国を憂うという主旨の文章のために、捕らえられ入獄さえしている。思想弾圧を直に経験した一人である。敗戦後、それは逆に信仰の鑑と見られるようになったかもしれず、平均礼拝者数は400人を超えていたという。
このような経緯などについては、巻末の「解説」に詳しい。そこには、本書に掲載されている一つひとつの文章や書についての背景や内容が説かれており、内容を振り返ったり、その意義を考えたりするのに非常に役立つ。その意味でも、これはただ原稿を集めて出版したのではなく、よくよく考えられ、練られて仕上げられた宝物である。
聖書そのものについて説かれたものは、いまも参考になる。もちろん、当時よりも研究が進展したために、いまは違う解釈が一般にとられている、などのことはあるが、聖書の言葉に生きる人、その言葉が人を生かすと信じている人の言葉には、力がある。それがまた神の力でもある。
時事的な論評も多々あるが、それはむしろ一般の人々の心にも響くものであっただろう。ただの信仰の糧としてではなく、世の中を考えるためのヒントにもなるし、また牧師の訴えでもあったと思われる。恐らくいまの時代に生まれ育ったら、SNSを駆使して、毎日発信し続けたに違いない。それくらい、当時としては自身の考えをこれだけ頻繁に、大量に世に送るというのは、並大抵のものではなかったはずだ。
確かに、当時の時代をにおわせるものは少なくないし、価値観もいまとは異なって見えることも多々あるだろう。特に最初の方の文章には、私も首を捻るようなところが幾つもあった。だが、これは真摯に生きた人の人生訓であるとするならば、いまもなお輝きを失せてはいないものと思う。特に、思想統制がすでに始まった時代、そして政治家の暗殺が続く時代、戦争が現に始まった時代、それは、いまののほほんとした空気の中にいるのとは訳が違う。いまの時代もまた、そのようにならないとも限らないし、なってしまう可能性は小さくはないだろう。戦争は怖い。自分を正義だと信じて疑わなくするし、互いに呷ってひとつの方向にしかものを考えられなくなってゆく。私たちも、幾らでも加害者となってゆく可能性を秘めているのだ。
その意味でも、そうした時代に反骨精神をぶつけたこのような声は、いまもなお、あるいはいまだからこそ、十分にそれを聴くだけの意義があるものだ、と私は思っている。

た
か
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