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『安心のファシズム』

ホンとの本

『安心のファシズム』
斎藤貴男
岩波新書897
\700+
2004.7.

 タイトルだけからすると、分かるような、分からないような感じがするが、その主張については、読み進んだ最後に説明されるようになる。
 本書が書かれた2004年春、私も意識の中から消えていたあの事件があった。イラク人質事件である。ここで事件を詳しく紹介するよりは、その筋から情報を得て戴きたい。イラクの武装勢力に人質とされた日本人3人に対して、日本ではバッシングの嵐が吹きまくっていたことを、ジャーナリストとして著者は問題にした。というより、「あとがき」を見ると、このバッシングこそが、本書の執筆の動機の本質なのであるという。だとしから、そこからあっという間に1冊分の原稿ができあがったことになるだろう。
 確かに、記憶にある。だが、私がこの言論の奇妙な興奮に対して、何かを論じようとしたようなことはなかったと思う。政治のかけひきについては、真実のところが分からないのだが、今でならSNSで誹謗中傷が飛び交うというところを、けっこう生の声として露骨な「いじめ」がなされていたのは、不快で仕方がなかった。もちろん、当事者はたまらないだろうと思いつつも、そのために何かができるというものでもなかった。できることは、その罵声に加わることだけはしなかった、ということである。それでは何にもならないのであるが。
 しかし私の記憶からそれが遠ざかっていたのには、別の理由もある。そのころ、三男の子育てや、兄たちの学校での困難な問題があって、我が家の教育環境が(妙な言葉を使うが)火の車だったのだ。そうなると、生活でのっぴきならない問題が起こっているときには、世の中の言論について、時間をかけるゆとりがない、ということになる。自分の生活で手一杯で、ひとのことを考えることができない、ということになるのだ。
 著者はまた違う切り口から論じていくことになるのだが、このように生活に没頭しなければならないという情況も、「ファシズム」を助長することになるのではないか、と私は思った。だから、政府は反論する者をなくすには、国民の生活を切羽詰まったものに追い詰めていればいい。生活にゆとりがなくなったときには、じっくり政府の意見を聞いて考えをまとめよう、などという気が起こらない。国民全部が慌ただしく生活していれば、政府は、知られない間に独裁的な政治に走らせることができるようになるのではないだろうか。
 SNSのことにいま触れたが、2004年の時期は、まだダイヤルアップ通信も機能していた。その程度の通信手段であったから、その後の展開を考えると、本書で案じられているようなことも、全く様相を異としてくることになる。本書では、この後、「自動改札機」に文句を言い、「携帯電話」の悪口をずいぶんと綴る。それが今後何をもたらすか、についての懸念を語るのだ。私も当時いくらか考えていたような点もあった。しかし時代は、その技術革新によって、かつての常識を塗りかえてゆく。隠れてひとの悪口が言えるその後のネット環境が残酷な事態を招いたのも確かだが、それがない本書の時代にも、本質は何も変わらなかったようであることが窺える。私たちは、ネット時代以前の言論などの情況を振り返る必要がありそうだ。
 執筆当時の政治状況がここには反映されているから、確かにあったと思えても、私の記憶もどうやら怪しい。自民党憲法調査会のことが取り上げられる。「心のノート」と並行する形で、「自由からの逃走」という思想をまるで正反対の意味で持ち出して、政府の憲法改訂を正当化しようとした有様が暴露されるのだ。
 また、監視カメラ社会の恐ろしさも論じられるが、確かに当時も話題に上っていた。もちろんイギリスのように、監視カメラがすでに張り巡らされていた国もあったが、日本人がそれを受け容れる有様がここに明らかにされた。
 服従の論理に触れた後、最後にようやく「安心のファシズム」と題した章で、著者の懸念がはっきりと提示される。そこに浮かび上がってくるのが、本書の副題「支配されたがる人びと」である。私たちは、個人がどうとか自由がどうとか口にはするものの、本質的には、支配されたがっているものではないか。
 但し、人間の本質といったものを哲学的に議論するのが本書の役割ではない。そういう時代でもあった。政府に反対する意見を出せば、他の犯罪者より軽微なことしかしていなくても、厳しく罰されるようなことになる。この政治の雰囲気は拙いぞ。その警告を与えようと、かなりの憤りが溢れた本となっている。これは言論弾圧が、現に起こっているのだ、と。
 そのような国家は、必ずしも一部の独裁者や権力者が、強権的につくりだしたものではない。人々は、積極的にこれを支持し、協力しているのだ。ここに気づかせようとしているように見える。一部の、意見を自らの心と口で述べた者を、周囲が一斉に叩く。皆一様でいようではないか、なぜわざわざ場を濁すのだ。君たちが賛同するから、その政策は正義となって実現していくのだ。投票に行かないから、関係がない、などという理屈はない。強大な権力と巨大なテクノロジーに支配されることが「安心」であるから、それでよいではないか、などと考えている暇はない。ファシズムはやってきている。そのように著者は叫ぶのである。
 その後、どうなったか。ネット社会は、ヒステリックな怒号を招いた点もあるが、どうやらむしろ、穏やかな正論を拡充するためにも役立っているとは言えないか。一部でいじめ関係や犯罪の手引きなど、ネットが悪を呼ぶことがあるのは事実だが、他方、それまでバッシングの嵐に隠れてとても届くことのなかった落ち着いた意見もまた、受け取ることができるようになっている面があるように思うのだ。
 そうなると、自動改札や携帯電話が、あのとき著者が毛嫌いしたように悪者にする理由がなくなってのではないか、とも考えられるわけである。果たして20年ほど経ったいまも、著者は自動改札機を忌々しい目で見つめているのか、スマホどころか携帯電話も使うものかと背を向けているのか、その辺りも興味が湧く。
 私たちは、いくらかうまく、テクノロジーと付き合ってきたのかもしれない。政府の憲法改正はいまだ実現していないし、少数者の権利も守ろうという空気が増しているのも確かだ。「安心」に乗っかりがちな人間の実情は確かにあると思うが、軍靴の音が聞こえる、というような懸念も、心配したほどには現実に近づいてはいないようにも見える。
 ただ、それがいけないのかもしれない。それこそが、悪しき「安心」なのであって、誰かが悪意を以て計画したファシズムではないままに、「みんなで」つくるファシズムが、気づけば生じていた、という時がくるのかもしれない。こうなると、現実の政治や世相を根拠に話をしても、予言は実現しなかった、ということで終わる虞がある。もっと人間の本性ついて、心理学でも教育学でもぶつけてきて、結局は哲学的に危険を見出していくことが必要なのではないだろうか。
 私も、これからは真摯に見張っていきたいと思う。見張るのはまた、聖書を手に持つ者に与えられた義務でもあるのだ。




Takapan
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