本

『オイディプス王』

ホンとの本

『オイディプス王』
ソポクレス
藤沢令夫訳
岩波文庫
\480+
1967.9.

 最初の発行は古いが、その後改版がなされ、装丁も美しい。また、価格は2015年の76刷のものである。この「ホンとの本」では、価格はとにかく私が手に入れた段階のもの、発行年はその本が最初に世に出た時を基準としている。
 さて、ソポクレスという名が大きく表紙にあるのは、この「オイディプス王」の物語は、何人かの人が描いているため、その中で最も著名なものである本作を際立たせるためのものであるようだ。ギリシア哲学の藤沢令夫氏がどうしてこのような文学作品を訳しているかという点については、ご自身がこう触れている。「哲学という、人間の生き方に関する精練された思索の営みを支えていたものは、紀元前五世紀までにつちかわれてあった「経験」の全総体であり、その全総体のなかにあってギリシア悲劇が占める位置は、きわめて重要である。」
 丁寧に地図と、テバイ王家の系図が物語に先立ち提示してある。但し、これをそれほど気にする必要は実際ない。むしろ、訳者による、「劇がはじまるまでの出来事のあらすじ」を必ずきちんと読んでおくことだ。私などは、このスフィンクスとのやりとりなどを物語の筋で見てみたかった気がするが、本編はずばり悲劇そのものの中に入り込むことを急ぐかのように始まる。しかし、これらの前提はどうしても知っておかなくてはならないのだ。
 エディプス・コンプレックスという名で、フロイトが提案した心理学の概念もあるくらいで、このオイディプス王の悲劇は、西洋文化の底流に潜む偉大な精神を伝えている。それもまたおぞましい運命とでも言おうか、このオイディプス王は、両親に関してとんでもない運命の渦中に巻き込まれてしまう。
 あまりにも有名なので、ネタバレを恐れず記すことにするが、ライオス王は妃イオカステとの間に生まれた子どもを棄てる。神託が、その子により父ライオスは殺されると言われたからだ。しかし、十数年後にライオス王は殺される。王を失ったテバイの人々はスフィンクスのかける謎の故に危機に陥るが、それを、コリントス王の子といわれたオイディプスが解いてテバイを救う。王を失ったテバイはオイディプスを王位につけ、かの妃イオカステがその妻となる。
 十数年後、テバイに疫病と飢饉が訪れる。実はここからが戯曲の本編であるが、以上の経緯については、本編の中で次第に明らかにされていくことになる。さて、国の危機にあって神託を伺うと、それはライオス王を殺したものが罰されていないせいであるという。その殺人犯を捜せと躍起になるオイディプス王であったが、実はそれが自分自身であること、さらに自分がライオスとイオカステとの間に生まれた息子であったことを知り、自らを呪い傷つけるという悲しい結末を迎えるのであった。
 ホメロスがこのような事件のあらましを記していたことから、それを膨らませてひとつの悲劇にするということを、幾人かの劇作家が挑んできたのだという。なるほど優れたモチーフである。しかしホメロスが書いていたのはおおまかな設定だけなので、事実作品にするとなると、著者によりかなり与える印象の異なる作品となっていたらしい。また、現実にそれがすべて遺っているということすら珍しいわけで、このソポクレスは、その残存についても、また作品としての質についても、一位にあるものであるようである。アリストテレスがこうした芸術についての本を書きのこしているのだが、やはりこのソポクレスのものが絶賛されている。
 戯曲が始まるときに、「登場人物」が紹介されているが、これも読み始めると後から参照するようなことは、殆どいらない。せいぜい「クレオン」と「テイレシアス」なる者が何者であるかを押さえておけばよいだろうが、それもただ読めば分かるようになっていると言えるので、少ない登場人物と明確な関係が理解できるために、優れた配置となっている。少なくとも、チェーホフの戯曲に比べると格段に分かりやすいし、ドストエフスキーの小説が読める人は、登場人物一覧すら見る必要はないだろう。
 それにしても、神託というものが如何にギリシア文化において重要であったのか、改めて知る思いがする。もちろんソクラテスの思想をプラトンで読み慣れているからには、神託の何ものかについては迷うことはないのだが、それにしても、国の成り行きを左右するような事柄についても、敬虔に神託に従うというのが、決定的な理由となり、行動の基準になっているということがよく分かる。
 初めのほうに、「救い主」という語が現れ、国を救うということを心がけるオイディプス王の姿が伝わってくるが、そのオイディプス王が、自身を救うことができなかったというのも、悲劇が悲劇である所以であるのかもしれない。
 合唱隊の歌の歌詞が時折挟まれる。重苦しい運命が次第に露わになっていく過程で、程よい小休止ともなりうる。これがなければ、暗い芝居が延々と続く感じがすることだろう。だが実のところ、ギリシアの演劇舞台というのが具体的にどのようなものであったか、分からないといえば分からない。それを現代では、なんとか忠実に再現しようとする試みもあるのだというが、やはりひとつの解釈によるものなのだろう。
 ソクラテスを揶揄した、アリストパネスの『雲』を昔読んだが、その言葉だけでもその喜劇性はよく伝わってきた。本作は、悲劇である。言葉だけでも、実際かなり伝わってくると言えるし、感情移入もしてしまう。舞台そのもののありさまも近年よく研究されているので、古代を描く映画の1シーンにも出てくることがある。藤沢さんの時代には、やはりまだそこまでは分かっていなかったのだろうが、果たしていまの解釈でよいのかどうかも、いまとなっては分からない。しかし、それを想像する楽しみはあるだろうと思う。
 このような悲劇は、形を変えて、いまもあるだろう。この作品だと運命に弄ばれるようなオイディプス王であるし、自分は生まれなかったほうが良かった、死んでいればよかった、などという嘆きは哀れでしかない。しかし、母であり妻となったイオカステもまた悲劇である。こちらはオイディプスほどには普通取り上げられないが、このイオカステに的を絞って心理的文化的な悲劇性を探究する方法もあるのではないかという気がする。いや、きっと誰かがしていることだろう。
 出生の秘密や酷さというものは、私たちの誰にでもあるとは言わないが、私も実はそこから悩んだのであり、そのことが聖書から救われる大きな理由となった。その意味でも、このオイディプス王の物語は、必ずしも他人事ではなく、心切なく迫ってくるものを覚えるものであった。あなたはどうお読みだろうか。




Takapan
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