本

『新約聖書の女性たち』

ホンとの本

『新約聖書の女性たち』
C.H.スポルジョン
佐藤強訳
いのちのことば社
\2000+
2022.9.

 スポルジョンの説教集を現代に出す意義は何だろうか。
 1850年イギリスにて回心したときが16歳。イザヤ書45:22に呼ばれたのだという。その一途な信仰もさることながら、語る才能に恵まれ、説教の天才と呼ばれ始める。19歳にて教会の説教者の立場に就き、200人の会衆を、その年の内に1200席を満席にしたという。牧師として就任した教会は10人しかいなかったが、1年で400人に成長させたそうである。20代半ばにして、6000人を収容できるタバナクル教会を設立し、生涯そこで語り続けたという。
 訳者は「まえがき」の中で、当時が産業革命の時代であったこと、したがって人の動きが大きく変わり、農村の出身者が工場労働者になるなど、社会の変革が著しかったことを指摘している。その説教は、競って文字にされたちまち全国に広まっていく。人々は、その激変の中で、福音に求める思いが強かったようである。
 説教集が、英語ならばいくらでもあるが、もったいないことに、邦訳は殆どない。本書は、生涯の一時期に限らず、様々な機会で語られたものが集められている。訳者は、女性であるからという意図で翻訳したのではなく、偶々心惹かれるものが多く見られる説教集に出会い、出版できたら、と考えたらしい。
 女性が当時置かれた社会的情況は、今日のそれとは違うけれども、聖書の中に登場する女性は、普遍的な輝きを今も変わらずもっているだろう。ここには、イエスの母マリアやサマリアの女、カナンの女やマリアとマルタ、その他幾人かのマリアが、イエスにまつわる女性として取り上げられ、パウロと出会ったリディア、それからローマ書に居並ぶ女性たちを取り上げるなど、なかなか厭きない。決して「解説」をしようというのではなく、その言動とイエスとの交わりの中に、ふらふらと読んでいては気づかない点を取り上げ、聖書を縦横に開いて、神の恵みと、信じる者の生き方や生活様式にまで斬り込んでいく。その意味では、決して古さは感じさせない。
 繰り返すが、たとえ150年の時が流れ、英語そのものは変化しても、説教の内容は決して古びていない。聖書の言葉が変わらないので、それと自分との関係を問う神の思いを代弁するような説教なのであるから、決してその時代だけに限定されはしないのだ。
 もっと読まれたい。もっと他の説教集を、日本語にしてほしい。採算が取れないという計算がどうしてもなされることだろうが、もっとスポルジョンが読まれて、霊的に新しくされる人が増えてくることを期待せざるをえないと私は感じる。もしかすると、日本のキリスト教界の運命にも関わるのではないか、というくらいにまで言ってもよいのではないか。
 このスポルジョンは、神学校に行ったわけではない。これは、現代日本の形式主義による悲壮な情況を打破する一つのヒントになりうると私は考えている。スポルジョンは、回心の翌年にメソジスト派からバプテスト派の教会に移ったというが、日本のバプテスト派の中には、牧師を特別視しないと誇っているところがある。ところが実質、神学校に行かないと牧師とはなれないようである。逆に、神学校さえ出ていれば、召命どころか救いの経験すらなくても、牧師という職業に就けるようになっている。悲惨である。
 スポルジョン自身は、カトリックに対して厳しい態度をとり、それはもう激しい口調で批判をするが、それを時代的な背景によるものと許容さえすれば、いまもなお霊的に十分うなずける説教が多い。その多彩な実例に基づく語りは、聞く者を神の前に連れて行くだけの力が確かにあったのだ。その「説教論」も、時代的制約はあるものの、もっと今読まれて然るべきだと私は思う。英語は19世紀の英語で、今の辞書には載っていない語も多用されるが、三省堂の「エクシード英和辞典」にはそれが載っていて、読むのに役立つことを、付け加えておく。




Takapan
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