本

『新約聖書における教会像』

ホンとの本

『新約聖書における教会像』
E.シュヴァイツァー
佐竹明訳
新教出版社
\980
1968.9.

 比較的地味ではあるが、日本の神学にも少なからぬ影響を与え、また親日家として交わりも多い著者の作品は、その関係者を通じて、実は何冊も邦訳されている。近年絶版になったままのそれらの本が読まれないのは寂しいことだ。
 以前に教会についてのひとまとまりの著書があったというが、そこからまた考え方も変わってきたこともあり、新約聖書からの証言にさらに耳を傾けることによって、「教会」について改めてまとめあげたものであるようだ。ギリシア語でエクレシアという語が私たちには「教会」と訳されているが、ドイツ語だとゲマインデとなる。これは日本語の教会よりは原語のイメージに合うらしい。それだけに、豊かな考察がなされていくものという見方もできるかもしれない。
 これは、教会形成や教会運営のためのノウハウの本ではない。あくまでも、新約聖書が「教会」についてどのように捉え、提示しているか、それを読み取り、私たちが教会というイメージで何を考えていけばよいのか、旅していくような感覚で読んでいくことができるかと思う。そうして、どこかお気に入りの場面でだけ言及された教会観に偏らず、聖書がそれぞれの巻で告げているものをつぶさに受け止めていこうというのである。
 つまりは、教会というものは、一言で済まされない、多様な解釈がある。イエスが口にしていた教会と、書簡のそれとは同じとは言い難いものがある。ルカの手によるものは、教会の初期の姿として確かにイエスと連続したものがあるかもしれないが、後期の書簡となると、制度が調っているかのようにも見え、ずいぶんと近代的なものになってきたように見える。
 だがそんなに単純でもない。マタイとルカとではやはり視点が違うし、パウロもまた、あるいは書簡もそれぞれに、異なる強調点や触れ方というものがある。私たちはあまり気にしないでもその都度、教会とはこういうことだよね、と話していけることも、学者は見逃さない。私たちは、ある一場面の教会像をその都度強調して言っているに過ぎないのだ。
 特にヨハネはまた違う。著者は、このように書簡や筆者毎に、細かくその記述を追い、しかも教会に特化した読み方を以て、教会の姿をスケッチしていくように見る。こうして新約聖書をひととおり見たら、それでキリストの弟子たちの教会のことが分かるかというと、必ずしもそうではない。著者の本骨頂は、次の、教父たちの文書への言及にあるかのようだ。
 ディダケーにおける教会、クレメンスの第一の手紙における教会、イグナティウスの手紙における教会、ヘルマスの牧者における教会、バルナバの手紙などにおける教会、とたたみかけるように、新約聖書の場合と同様に検討する。
 こうして並べて終わりではない。新約聖書の教会は、大きく二重の視点の中に置かれていることをまとめるようにし、また教会制度がどのようにどこから現れてきたのか、についても推察する。これが神学における決定版となるのかどうかはさておき、大きな指針になることは間違いない。そして、信仰生活をする場としての、あるいはその生きた共同体としての教会という視点で、教会について学んでいく歩みがここにあることを思うと、訳者が言うように、神学の勉強を志すものは誰もが一度は目を通すべき本と見なすべきと言ってもよいでろう。客観的な事実や事象としての教会というものでなく、自らが関わり信仰生活を生きていくところ、キリストの出来事がそこで起こり、ひとがキリストと出会う場としての教会というものを、ここに見出すことは、さほど困難なことではないだろう。そのような考察をするときの、貴重なデータが集められていると思うと、確かにこれは、手許に置いてしばしば参照するに値する本だと思えるのである。




Takapan
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