本

『ノアとバベル物語 説教と黙想』

ホンとの本

『ノアとバベル物語 説教と黙想』
及川信
教文館
\1800+
2012.2.

 誠実に聖書にあたる及川牧師の旧約聖書の講解シリーズ。私はそのアダムの話に魅せられた。それで、続いてノアについての沈思に向かいたくなったのであった。
 期待は裏切らない。ノアの物語は、旧約聖書の中でもひとつのまとまりのあるエピソードである。それなりに長い叙述であるとも言えるし、物語としてはほぼ一つであるとも言える。しかし、含まれた教訓や霊的なメッセージは少なくはない。このように、一言ひとことについて検討して、説教するということと共に、説教者が深い黙想を重ねて味わっていくということになると、得られるものはいくらでもある。
 通常説教は、一度その箇所を取り上げ、要点あるいはそこからひとつのことをしっかり伝えて終わる。すると、そこかしこに隠された深い神の思いを嗅ぎとるようなことはできず、当たり障りのない奨めで終わるものである。それを、長いエピソードであれ、一文一文に思いを寄せ、さらにそれが新約とどう関わるか、聖書全体の中でどんな位置づけをもっているかを考えながら進むと、するめではないが、考えれば考えるほど味が出る。他の歴史的文明との兼ね合いまで考える余地のあるのがこの創世記であり、そうなると、いくら時間があっても頁があっても終わらないほどであろう。
 私もそういうのをやってみたい気がするが、これにつき合わされる教会員も大変と言えば大変だ。礼拝の説教が何ヶ月もノアばかりということになりかねない。もちろん、現実には間にいろいろ挟まってくるものだが、ノアひとつにやたら詳しくなることだろう。私はそれはひとつにはよいことだと思う。当たり障りなく広く浅く読んで分かった気になるというのでなく、見たところは狭いけれどもそこを深く深く知る試みをすると、他のところに触れたときにも、そういう読み方を試すことができる。よく国立附属中学でやるような手法だ。社会科で、一年かけて東北地方だけを授業で扱う、などというパイロット的学習をすることがあるのだ。
 ともかく、ノアの出来事は、まずそこへ至るまでの系図の問題がある。この系図にも、なんとなく目を通していたのでは気づかない、深い問題が隠されていることを学ぶ。その意味を考えるのは想像が混じることがあるにしても、事実複数の系図に食い違いがあるなどということは、放っておいてよいはずのないことなのだ。では何故違うのか、そこから黙想が始まる。それは唯一の答えを導くものではないかもしれない。が、意義がある。神はどんな意図を私たちに向けており、それをそのような形で垣間見せているのか、そのように応答しようとするのがキリスト者である。それは愉快な知的、また霊的な冒険となる。
 また、この黙想説教の優れているところは、いまここにある私たちとの関係を必ず問うところにある。ノアの物語だからといって、それは昔話なのではない。自分とは関係のないおとぎ話を楽しんでいるのではない。いまの私たちに直結する、というよりむしろ、いまの私たちも同じ状況に置かされており、そこから決断を迫られているという真実な歴史の中の自分の立場を否応なく突きつけられてくるのだ。聖書は、そのように読まなければ意味がない。それは私の持論である。
 ノアの出来事は、ノアを完全な人物として描いてはいない。私たちもまた、ノアと同じでありうる。ノアは命じられたわけでもないのに、水が引いた後、動物を献げて神を礼拝した。このノアの後、人類はまた悪の歴史を辿ることになる。かつてなかった肉食を行い、それがいまの私たちに引き継がれている。動物たちは、それまで人類と共存していたのに、その語は人間を恐れて暮らすようになっていった。これがいまの私たちの世界である。ノア以前とはまた違うのだ。だが、いずれ「その日」が来たら、もはや肉食もなくなるだろう。ノアの方舟が、バビロン捕囚を背景にしているという理解もできるが、また現代のキリスト者や教会の姿としても目に映るものだとすれば、この物語は、終末を迎える旅を示していると捉えることもできるのだ。いや、そう捉えなければならないだろう。
 これだ、とひとつの理論に決めつける必要はない。また、決めつけてはならない。私たちは一人ひとり、神から問いかけられている。ノアの物語を、おまえはどう読んだのか。この物語の中の、どこにおまえはいるのか。そして、読んだならば、ここからどうするのか。聖書はそもそもそのように読むべきだと堅く信じているが、この説教と黙想は、それを促してくれる。だから、私はこのシリーズのファンなのである。




Takapan
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