本

『日本語と西欧語』

ホンとの本

『日本語と西欧語』
金谷武洋
講談社学術文庫2565
\1100+
2019.5.

 日本語に主語はいらない。この主張から説いているということで、文庫化されたその紹介の誘いに乗り、購入した。私もそういう言語学には、一定の感心をもつわりには研究世界には疎いので、こうした議論の背景を知らなかった。それで失礼だが、著者のことはたぶんこれまで知らなかった、あるいは意識の中に収まっていなかった。橋本文法でよいかどうかについては、時折主語述語などを教える中で、いやこれでは万全ではないししっくりこないぞ、という思いはいつも感じていた。それに、それほど大切な主語であるならば、これほど日本語で主語がないままに話が展開できるということについて、何かしら不思議な思いは当然あった。西洋哲学の主体概念を脳裏に浮かべるだけでも、日本語の、自発感情の先行ということについては、思考法自体が違うのだろうということは十分弁えていた。
 それが、どういう論争であるのか、その論点は何であるのか、本書でよく知ることができた。というのも、著者が非常に挑発的であり、あらゆるスタンダードな権威の側を徹底的に斬りまくっているからです。正直、読み物としてはこのような態度が読んでいて面白い。かつての梅原猛もそうであった。皆が常識と思い込んでいる権威に挑みかかる論者は、その分攻撃的にならねばならないのであろうし、それだけの証拠と信念をもち、強く主張しなければならないからだ。そして、従来の説を細々と打ち砕き批判する勢いが必ずある。
 本書はそれらを備えており、さらに著者自身の提言もある。また、在野的な先人からそのヒントを得たことを正直に述べ、なおかつその先人が届かなかった扉を自分が開くのだという自負も語っている。そうして、自分の言葉で、掴んだ真実を告げ知らせる。それが、帯にあるような「虫の視点」と「神の視点」であり、本書を読み解くためにはこの概念さえ理解すればよいと思われる。
 サブタイトルが「主語の由来を探る」とあるので、本書の主題が主語であることは明確である。西欧語というから、必ずしも英語に限りはしない論じ方も好感が持てるが、読者にとっては英語が分かりやすいだろう。また、実に英語こそ、主語重視の最たるものである。いまのアメリカがどんなふうになっているか、という、言語学そのものから離れた章もあり、読者を退屈させない。このあたりも巧い。
 英語は非常に特殊な言語である。確かにギリシア語からラテン語という源流から辿るものしか私はかじっていないが、元来そこに主語は必要とされていなかった。それを擁するようになり、また語順について最も不自由になってきたのが英語だとも言える。雑多な言語の集まりとして発音も不明なこの言語は、フランス語がそれでもまだ有していた性をも捨てた。もちろんドイツ語まであったような格変化もない。日本語のような助詞はわずかに前置詞という形で残るほか、主要分の要素としては不要となっている。となると、主語と述語という構造が幅を利かすのは必定である。西欧語に過ぎないがある程度見渡している者から見るとよく知っているこうした事柄の背景を、著者は、2つの視点から説き明かそうとする。また、それが文明と世界情勢をつくってきたことを指摘する。
 ところで、この「神の視点」という言い方の指摘の中には、キリスト教に対する批判や反抗もこめられているような気がする。さしあたりそれは別問題としてもらいたいが、もちろん無関係とするつもりは私にはない。人間が、神になってはいけないのは山々である。しかし、どうかすると、神になり代わっていくような錯覚を起こしかねないのは事実である。だがそれは、キリスト教を主因とするというよりも、むしろ神を神とせず近代思想が主観客観の世界観を確立させ強化させていく中で捉え直す必要があることではないかと思われる。キリスト教を脇へ置いたことから生じた、とも言えるのではなかろうか。この薄い本でそこまで検討することはできなかったに違いないが、読者には、雰囲気的に、キリスト教のような一神教が、恰も人間を傲慢にさせたというような響きが伝わるように思われる点が、少し残念ではある。
 在野の研究者・三上章を評価し、光を当てるという上でも本書の意義はあるだろう。私も読みたくなった。ほかにも、この問題について論じた本で、しかも入手しやすいものが随所に紹介されているので、またそれらに触れて、この問題は考え続けてみたいと思った。価値観は著者と同じ気持ちを抱けないかもしれないが、指摘している問題については非常に共感をもてるものが多かった。また、ギリシア語の中動態については別の本でもそれへの挑戦を見ていたので、あらゆるギリシア語入門や解説書が記している中動態について不満をもっている私としては、そこに従来の人間の思い込みを覆す大きな鍵があることは感じていたので、本書でも触れてあることは興味深かった。いまや、能動態と受動態が対立するようになっているのは明らかに時代を下ってからのもので、元々は能動態と中動態しかなかったのである。だからこの受動態の現れを、この主語の問題の領域の中で明確に語ってくれた本書は、そこだけ見ても十分興味深いものを含んでいた。目的が異なるので、中動態についてそれ以上突っ込まれていない点は、私としては不満だが、それは仕方がないであろう。そこから先はこちらが引き受けなければなるまい。
 聞けば、著者の挑戦的な提言に対して、橋本文法サイドは黙殺しているとのこと。もったいない。えてしてそのような構図はこれまでもあったから、驚くことではないが、よかったら、その「虫の視点」によるとそのような論争をしないのだ、という辺りまでメタ的に取り扱うと、著者の主張は逆に証明されていくことになりはしないか、と内心楽しみにしている。




Takapan
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