本

『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』

ホンとの本

『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』
小野寺拓也・田野大輔
岩波ブックレットNo.1080
\820+
2023.7.

 話題の本をようやく手にした。ドイツ現代詩を専門とする教授と准教授によるブックレットである。100頁を超えてくるから、ややずっしりとした感がある。
 良いタイトルである。分かる人には、その問いかけの意味がピンとくる。ナチスは、確かに酷いことをした。ドイツを変えてしまった。だが、インフラや政策、福利などについて、「良いこと」をしたのだ、という声が確かにある。それも、比較的最近広まってきた見方ではないだろうか。実際、何か「良いこと」をしたからこそ、国民は支持したのであろう。その国民の責任という問題もまた、近年よく話題に上る。国民がヒトラーを選んだのであるから、もしヒトラーが悪かったのなら、国民が問題ではないか、というのである。凡庸な悪が指摘されたことがあるが、国民がヒトラーに熱狂していたという事実を隠すことはできないだろう、と言われたら、それも確かにそうだと思う。
 本書は、そのような揺らぎに、ぴしゃりとアンチテーゼを以て応える。「良いこと」はしなかった、と。
 歴史史料に詳しく、それについての考察を生業にしている。誤解されている点を一つひとつ暴き、実際の歴史がどうであったかを明らかにする。本書の本文は、それの連続である。
 そのすべてをご紹介するつもりはない。実際に本書を開いて確認して戴くのが筋だからだ。だがいくつかの観点はここで示してもよいものと判断する。ヒトラーが権力を握った点も、現実に熱狂的に選挙で支持されたというものではない、などというように、事実を重ねて証拠立てていくことになる。
 もちろん、ドイツ人がナチ体制を支持していたと目されることのからくりをも明らかにするし、経済回復の問題、労働者を救ったとされるような点についても、淡々と歴史的史料をぶつけてくる。この辺りは、歴史専門の大学職員であるからには、得意とすることであろうし、ひとまず信頼を置いてよいことなのだろうと思う。
 その他、家族を支援したような点、動物愛護や医療支援、禁酒禁煙など健康に関する善政とされる点をも、容赦なく事実を前に斬っていく。
 ただ、あまりにすべての「良いこと」について捻り潰していく様子を見ていくうちに、だんだん心に疑いが生じるのを覚えた。これは、ひたすらアンチを主張するために、一つひとつの話題についてケチるために、都合のよいところを引っ張ってきているようなことはないか、という疑念である。
 これこれは、ナチスが初めてしたことではない。その前からあって、それを受け継いだだけだ。このような点で論じきられることもあった。たとえオリジナルではなくても、「良いこと」をしたというようなことはあるのではないか。そのような問いかけの中で、読み進めることもあった。
 それが何らかの「良いこと」であることを否定しきれないために、やや苦し紛れの言い方をしているように見える気がした場面もあったし、そのひとつの「良いこと」の裏で悪いことをしていた、というような言い方に聞こえるときもあった。その「良いこと」の先にある目的がよくなかった、というふうに感じることもあった。これらは、私の読み方が上滑りでいい加減であったから、そう思ったということなのかもしれない。何にも読めていないじゃないか、と言われても仕方がない頭脳なのである。
 だが、「おわりに」を最後に読んで、私はすべてがストンと腑に落ちた。これを最初に読んでいたら、きっと読み方が違っていただろう、と少し悔しい思いをした。  そこをばらしてしまうと、ネタバレになるかもしれないが、それでも少し触れさせてもらう。それは私の心に「納得」の印を押したからである。できるだけ私の言葉でそのことをご紹介する。
 この「おわりに」で種明かしされたのは、ツイートでの出来事だった。ナチスは良いこともしたのではないか、というツイートに、そうではない、と著者(のどちらだろう)がツイートしたら、炎上したというのだ。おまえは無知だ、ナチスは政治としては「良いこと」をしているのを知らずに言うな、というわけである。本書は、そうした膨大な数の批判や攻撃に対する返答だというのである。
 歴史的には本書で返答していることになるのだが、ここで筆者は、ある種の推測をしている。何か良い子ちゃんの教育を受けてきた者が、教えられなかった斬新な説を聞くと、それに魅了されて、ありきたりの考えに反対することがカッコいいように勘違いしてしまうのではないか、と。尤もらしい常識を疑うことそのものは、もちろん悪いことではない。なんでも政府の言うことを「いいですね」と従うことが健全だとは思えない。批判精神は必要である。しかし、そのことと、この炎上の風景とは質が違うのだという。反権威主義的な姿勢は、事実に対する無関心や思い込みに基づくものである。
 オウム真理教を信じた者たちも、いわばそうしたひとつの集団だったのである。カルト宗教もしばしばそういうことなのだろうと思う。この危険性は、かなり共通範囲の広いものではないかと思うし、考慮すべき大事な観点ではないか、と私は感じたのである。
 世間は知らないのだ。しかし自分だけは知っている。人々は無知のために騙されているのだ。真理は自分のものだ。これは、指摘すべき重要な精神の傾向性であると言えるだろうと思う。これに対して、「専門家は一部の反発を覚悟しつつも、粘り強く専門知識を伝える努力を綴る必要がある」と書かれているが、これは非常に重要なことだ。私も、体験上、このことがとてもよく分かるし、共感できる。
 怖いのは、こうした自意識の昂揚による思い込みの勢力が、多数になるかもしれないという点である。民主制は、多数を以て正義とする。ドイツ国民がヒトラーと共に進んだことは、明日のこの国の姿になるかもしれない、ということである。
 ここまでは、著者サイドに寄り添って考えてきた。だが、私はひとつ不満がある。それは、本書でこの「良いこと」の定義がなされていないことだ。議論の中で、少し弱気に、それは良いことかもしれないが、というような響きのところがあって、それでも良いことではない、という方に話が向かうという場面があったような気がする。これらは、要するに「良いこと」という語の意味するところが異なるのである。アンチテーゼとしてその「良いこと」を否定するのが本書の立場であるが、否定したその「良いこと」とは結局何であったのか、そこがもやもやとしているのではないか、と思うのである。
 奇妙な言い方だが、政治を担ったからには、「良いこと」をひとつもしないはずがないのである。ダメダメ人間と称される者を、あいつは「良いこと」をひとつもしない、とは言えないように、「良いこと」というのが何を指しているのかを、どこかでもう少し議論するか、その暇がなければ、「良いこと」という語をどのような意味で使っているのか、提示する必要があったと思う。誰かのために何らか益することをしたとしても、その目的が悪であったら、それを「良いこと」とは呼ばないことにする、というような立場の表明が、必要だったのである。
 動物保護をナチスが言った背景に、実は動物を殴って意識を失わせることを麻酔と呼んでいた、という程度の悪口で締め括るようなことを、私はあまり求めてはいない。本書も指摘しているように、アーリア人としてのドイツ国民の尊重の背景に、差別されたユダヤ人を徹底的に排除して動物より遙かに劣る仕打ちをすることを正義としていたことの意味を考えなければならない、という点を重視したいのである。
 ブックレットでは、とうてい賄えないであろう。だが、この「良いこと」とは何か、どのような意味でその言葉を用いているか、その提示を期待したい。これだけの歴史史料によって、妙なナチス支持をするべきでないことを伝えたかったのであるから、「良いこと」ならばこうであるべきだ、というような基準を設けてもらいたかった。そうでないと、本書を読んだ上でも、「でもやっぱり良いことをしている一面はあるじゃん」と感じてしまう人が、残ってしまうことだろう。その人にとっては、別の「良いこと」の定義があるからである。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります