本

『ナグ・ハマディ文書抄』

ホンとの本

『ナグ・ハマディ文書抄』
荒井献・大貫隆・小林稔・筒井賢治編訳
岩波文庫
\1380+
2022.1.

 エジプトの南、ナイル川近くでこれらの文書が発見されたのは、1945年のことであった。この後間もなく、死海文書がヨルダン川近くで発見され、戦後に驚異的な発見が相次いだことになる。何が驚異的かというと、聖書の書かれた時代にかなり近い文書が見つかったからである。
 死海文書には旧約聖書の多くの写しがあり、しかも現在伝わるものとの一致度が高かったという。それに対してこちらのナグ・ハマディ文書の方は、エジプトのコプト語で書かれた現地の人のための文書であるのはもちろんだが、いわゆる「グノーシス主義」と呼ばれた、正統的なキリスト教とはとても呼べないタイプの、特殊な物語や知恵が集められていたものだった。それで本書のタイトルにも「新約聖書外典」という肩書きが付せられている。
 確かに、新旧約聖書のキャラクターが登場もする。だが、思想的には、似ても似つかぬものが殆どであった。それでも、初期キリスト教の周辺には、どういう思想があり、通常の聖書を保持したグループが、どういう思想と闘っていたかということが分かるとなると、新約聖書の解釈にも大きな影響を与えることになるはずである。研究の意義は小さくはない。
 本書には、たくさんあるそのナグ・ハマディ文書のうちのいくつか著名なもの、聖書を知るためにも影響度の大きなものをピックアップしている。従来もこうした文書は発行されていたが、ハードカバーの立派なものは、非常に高価だったし、巻数も多かった。それが文庫一冊に、「抄」とはいえ集められたのは、確かにありがたい。さらに、一つひとつの文書には、細かな解説が付けられており、底本を示すのはもちろんのこと、参考文献も並べられている。その気になれば、調べにかかるための道案内がしてあるということだ。巻末には、ナグ・ハマディ文書とグノーシス主義との関係についての論述と、用語集が付せられており、ただの訳書ではない、うれしい解説本となっている。
 こうした文書は、死海文書もそうだが、奇異な運命を辿っている。古物商に売られて分散したり、研究者が私物化しようとしたり、史料として落ち着くまでに紆余曲折を経ていることがある。もしかするとせっかく見つかったのに、ついに失われたものがあるかもしれない。事実、文書が断片的にしか揃わず、何文字分、あるいは何行分と穴の開いている訳が、本書にもいくつかもある。容易に想像できる部分もあるが、全く分からないところについては、括弧付きで空白となって訳出されている。そこから先は、私たちの想像力次第ということだろうか。それでも、よくぞここまで集められ、整理されたものだと思う。考古学者や聖書学者などの努力に敬服の意を表するしかない。
 本書に集められたものは、「イエスの知恵」「ペトロの黙示録」「ヨハネのアポクリュフォン」「トマスによる福音書」「エジプト人の福音書」そして「ユダの福音書」である。これまでご存じない方がこれを見ると、実にいかがわしい名前であるように思われるかもしれない。私はこのうちのいくつかは、すでに触れたことがある。トマスやユダは、比較的最近明らかにされた文書であるだけに、単行本ともなり、話題になった。特にトマスは、新約聖書とほぼそっくり同じ句も多数見られるために、聖書との関連性がいろいろ議論されたものである。
 これとは別に、講談社の文芸文庫から出ているものがある。こちらはナグ・ハマディ文書ではない。また別系統のものでもあり、そちらがまた、新約聖書の理解のためにはかなり重要であるとされる。もしかすると新約聖書に選ばれたかもしれない、というレベルの文書も含まれているからである。関心をお持ちの方で、もしもご存じない場合には、この文庫は、まだ入手可能であるのでお薦めする。但し、「旧約聖書外典」の上下2冊は、現在いわゆる「旧約聖書続編」ということで、日本聖書協会で殆ど読めるので、こちらでよいのではないかと思われる。日本聖書協会のものを購入するときは、この「続編」入りのものが楽しい。旧新約聖書と比較して参考になるし、イエスの言葉にしても、この中との関連が見出されることがあるからである。特に聖書協会共同訳では、いくらか頼りないが、引照が付いているので、参考にしやすいことだろう。
 こうした書は、信仰の書としては使えない部分が多いかもしれないが、より広く聖書を知りたいときには、知っていて損はないだろうと思う。広く知れば、また深く知ることにもなる可能性が高いものと思われるからである。




Takapan
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