本

『新約聖書神学』

ホンとの本

『新約聖書神学』
山谷省吾
教文館
\1200
1966.5.

 半世紀前の本であって、価格もそのときついていたものだけにいまの感覚でいくとかなり高かったものではないかと思われる。神学そのものも、半世紀もたてばずいぶん変わる。最新の流行や研究成果、また文献学の成果も盛り込まれておらず、研究者の材料としては乏しいことであろう。だが、よいものはよい。英米でも、半世紀前の文献が最前線の資料として活用できるというケースは珍しくない。むしろ、一定の期間の審査を経てきた現代の古典のようなものであるからこそ、内容が優れているという場合もあるのだ。
 本書が果たしてどういう評価をしてよいのかどうか、私は判断する基準をもたない。だが、読んだ印象だけから言わせてもらうと、優れたものではないかと思う。もちろん、その後の発見や研究から、多少はいまの常識とは食い違うところがないわけではない。しかし、聖書の理解は、本人の信仰が大きく左右するものであるし、誠実に読み込んでいったその研究姿勢は、ネットで浅くさらりと調べたつもりになりがちな今風の取り組み方とは違うものがあるかもしれない。また、矢内原忠雄のように、研究の気持ちが自分の信仰を燃やすものとしてある場合は、信仰生活には優れたものとなるが、文献的な研究としては多少信仰生活本意の偏りが見られることがあるのだが、本書は信仰に加えても、かなり幅広く客観的な資料や他者の研究を踏まえたものとなっていて、より学問性が高いと言ってよいかと思う。どちらが良いとか悪いとかいうものではない。これは客観的な評価に耐えるのではないかということだ。
 著者は、ドイツの研究者について詳しいようでもある。がっちりと四つに組むような形で、聖書に迫っていく、しかもそれは新約聖書の順に見ていくというのではなく、神学的・教義的なアプローチをとる。本格的な神学を学ぶのに決して古びていないと思う。
 最初はそもそも新約聖書神学とはどういうことか、プロテスタント初期から近年に至るまでを外観する。
 第1部はイエスである。それは神の国の説教から始まった。なにもその誕生記事を検討するのがよいというわけではないのである。項目的・事項的に問題を取り上げ、一つひとつ新約聖書のあちらこちらから光を当てて浮き彫りにしていく。
 第2部はエルサレム教会。それはイエスの復活から始まる。妥当な近づき方だ。まさに復活からこそ教会は始まったとするのである。普通ならばペンテコステで教会が誕生した、などと福音的説教では判で押したように語るのであるが、復活の記事が教会というものの成立に関わっている、そこから初期の教会について検討を始めるという視点は分かりやすい。そしてそこに、神学というものが始まる。
 そしてやはり大きく取り上げられるべきはパウロである。パウロの回心前の状態を丁寧に辿るのは、実は後のパウロを理解する上で大切な営みなのであろうが、案外私たちはそれを適切軽視する。問題は救われた後であって、その前は否定されるべき、と考えるのはよくない。何事も対比の中で捉えることは有意義である。救われる前のパウロを知ることで、その後パウロがこだわったのはどういうことなのか、そしてそもそもパウロがどのようにして福音を捉えたのかという理解が可能になると思われるからだ。
 もちろん、パウロにおけるイエス・キリスト論は大きく展開しなければならない。さらに、パウロ以後の牧会書簡やヘブル書、公同書簡へと、比較的簡潔にであるが、筆が進む。このあたりで多少現代の研究とは意見を異にするものもあるが、あまり気にしなくてよいだろう。ちょっとした書き方の中にも、教えられることは少なくない。
 そしてパウロ以後に、福音書というものが扱われる。これは時間順からして適切である。ただ、本書では共観福音書についての言及は思いのほか少ない。むしろヨハネの神学についてはかなりいろいろな項目を立てて論じる。やはりこれが神学というものであろうか。そこにはヨハネ書簡も入っており、ヨハネ黙示録も末尾に含み入れられている。
 よく整った、そして叙述もリズムよく、整理されている。幾人かの現代の学者が本書を薦めていたので探して入手したのだが、確かに推薦に偽りはなかった。学ぶところが多かった。ラインを引いている。もう一度見直してみたいと強く思わされる一冊であった。




Takapan
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