本

『歴史の中の『新約聖書』』

ホンとの本

『歴史の中の『新約聖書』』
加藤隆
ちくま新書864
\819
2010.9.

 新約聖書の成立事情についてのまとめのように思い、購入した。その主張には偏りがあるように言われるものの、聖書そのものの成立についての知識は広く、資料的なことを解説してくれる点では大いに助かるものがあると見ての購入であった。マルキオンの事情などにも触れてあるかのように感じたのだが、そこは期待したよりも薄かった。やはり新書ではそういうところにまで踏み込むことはできなかったのか、少し残念であった。
 しかし、実のところ、この本を開いたタイミングが悪かった。それは、先に紹介した『ユダヤ人イエスの福音』を読んだ直後であったからだ。こちらの本のことをここで詳しく述べる暇はないのだが、要するに西洋で古来伝統的に解釈されてきた聖書理解は、いわば西洋風に歪んだものであり、元来のユダヤ人の社会と伝統の中でイエスを、あるいは旧約聖書を開くと、どんなふうに読めるか、いや読まなければならないか、そこを熱く語る本であった。それにより、西洋の解釈を輸入してそれが聖書だ、と思いこみすぎている日本の近代の聖書理解が浅薄なものに過ぎないことを私は学んだ直後であったのである。
 新約聖書の選択や決定において、人の判断で人の支配の中で成立した、というような観点でまとめられた新書であったが、あまりにも聖書の解説が、通り一遍なのである。いわば、『ユダヤ人イエスの福音』で要検討とされた事柄が、もう決定されて変更の利かない真理であるかのように断定されている中で、私がずっと聞いてきただけのような内容が説明されていたのである。それが悪いと一概に言えるものではないかもしれないが、あまりにも、旧態依然とした西洋風の聖書解説がそのままに並べられているばかりなので、ちょっと私もぽかんとしてしまった。近年、ユダヤ社会と新約聖書との関係は様々な形で問題視されており、研究が展開している分野でもあることは、かの本ばかりでなく最近私がいろいろな角度から見聞することなのであるが、そうしたことへの言及もなく、ただひたすらに、これまでの西洋における聖書理解が掲げられているのである。
 福音主義というものがあり、あらゆる面から、聖書の一言一句を神の言葉の真理だと告白するグループがある。どれが真理でありどれがそうでないか、などを人間が決定するというのはおこがましいと私は思うが、信仰者が自分の信仰の問題として、その個人的な領分において、それを判断するという場面は、信仰人生において欠かせないと私は思う。私たちは、聖書の中のどれかを選択し、自分の原理としていかなければならない場合が起こるのだ。そのときに、聖書の中のいわば矛盾した表現の一方を真理だとして掲げることは、時に危険である。結局は自己正当化のために、聖書を選択してしまうことになるからだ。だが、人間は哀しいもので、そのように何かをその都度選択しなければ、聖書に従うことすらできない生き物であるのだ。
 新書の著者は、そういう福音主義についてくだらないと結論づけるのかもしれない。それはそれでよいのだが、その自分自身が、旧来の定説にしがみついているとなると、福音主義を嗤うどころの話ではなくなってしまう。まだ、聖書を神の言葉として全部受け容れるほうが、健全であるように私には見えてくる。
 それも、著者の信念から、それぞれの福音書はこうだ、と断定してしまうあたり、ますます以てそうである。信仰の構造をいとも簡単にシンプルな図で説明してしまおうとするのも、場合によっては問題が多くなりすぎる。時にあまりにも簡略化した形で理解してしまい、読者に理解させてしまう、というのは、私は聖書に関しては向いていないと思っている。神との出会いは、そのような単純素朴な構造ではないからだ。むしろ直に神と出会ったその出来事の中に人を変える力があると考えたほうが実情に近いと思うのだ。
 これも、タイミングが悪かった、の一言で片づけるのはしのびないことなのであるが。




Takapan
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