本

『新約聖書のギリシア語』

ホンとの本

『新約聖書のギリシア語』
ウィリアム・バークレー
滝沢陽一訳
日本キリスト教団出版局
\3780
2009.12.

 夏には過酷な仕事となるので、精神的にそれを乗りこえるために、本を買う。読み尽くすために、意義ある本をひとつ買うことにしている。2010年夏はこれだった。
 1978年に死去したイギリスの牧師であり大学教授の手による、ギリシア語の解説である。聖書によく出てくる語、あるいはキーワードとなる語を見出しにして、その語の説明から、その後で福音の何が語られているのか、を扱うわけで、ちょっとした信仰生活への誘いにもなっている。いや、信徒にとり、これはまさに信仰書である。聖書の言葉そのものから、福音が語られていると言ってもよい。
 この本は、かつて出版されていたものを新たに読みやすく改訂したものであると言える。
 実際、こうした本を私はかねてから期待していた。新約聖書をギリシア語で開いても、そこにある語をどう理解すればよいのか、それはその文脈の中で捉えるという基本がどうしても束縛となっている。しかし、聖書筆者が、そのギリシア語の環境の中で、どうしてその語を用いたかという問題は、その箇所だけ見ていても実感できない。同じギリシア語が、新約聖書の中で、あるいは七十人訳聖書の中でどのようにユダヤ人たちに受け容れられ理解され用いられていたかということで、逆に、その箇所はどういう気持ちでその言葉が選ばれたかが推察できるというものだ。それにより、聖書元来の意味が理解されやすくなるのではないか、という期待もできる。聖書は、ユダヤ人の言葉であってもよかったが、まるで現代世界で英語だけでも使えれば全世界の国々でコミュニケーションが可能だというのと同じように、ギリシア語を選び出した。ギリシア語を知ることは、一般に聖書の理解のためにも、実にありがたい経験である。だからまた、このギリシア語解説は、本来の古典ギリシア語における用法もしばしば掲げられている。プラトンあたりから引用されると、私は個人的に分かりやすい。コイネーと呼ばれる新約時代のギリシア語は、この古典ギリシア語とは異なるのだが、日本でも、鎌倉時代や室町時代の古文に、現代語の語源や、その言葉のもつ微妙なニュアンスを理解するための鍵が見つかることがある。言葉の背景もだが、その言葉がどういう意味で用いられているかについて、本来的な、深みのある理解がそこからできるだろうと期待されるものである。これは、聖書の理解のためにも、必要な方向性ではないだろうか。
 キリストのためにのみ特別に用いられるギリシア語あるいはその表現というものが明確になることで、私たちは改めて、キリストをどう見ていたかを考えたいし、また、私たちにどのように受け容れよと命じているのかを感じ取りたいと思う。
 その意味で、この本は辞書であるとも言えないし、ただの解説であるとも言えない。信仰は、抱く者にのみ通じる言語でつながれていくものである。その語の背景に潜む信仰が、ギリシア語としての感覚やニュアンスといったものによってさらにくっきりと浮かび上がってくればいいと願う。
 保守的な著者である。現在の聖書の正文批判からすると、この本の理解や解釈は、護教的に見えることがあるかもしれない。あるいはまた、古典ギリシア語を根拠にする様子から、聖書を他の文化に基礎づけようとするのかという批判が起こってくるかもしれない。しかし、私たちクリスチャンは、こうした信仰的にも信頼のおける方法で、もっとギリシア語に馴染んでいい。当時の共通語たるギリシア語の中で選んだ語である。聖書記者たちが伝えようとしたものは何であったのか、探ることができるかもしれない。そして私たちの生きる姿勢が、そこからまた問われているのだという理解も可能だし、私に言わせれば当然そうでなければならない。私はついに、一度読み終わった後で、この本の内容をノートに書き出すに至った。それだけの価値もある本だ。好ましいことに、索引もなかなか根気よくまとめられており、利用しやすい本である。
 現在あまりにすべてがばらばらで多様であるような時代の波の中で、ギリシア語を適切に理解しようとし、また聖書の言葉を受け容れる人々が、さらに増し加わっていくことを願うばかりである。




Takapan
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