本

『新約聖書の教育思想』

ホンとの本

『新約聖書の教育思想』
山内一郎
日本キリスト教団出版局
\3200+
2014.7.

 触れ込みが、この分野でユニークな必携の論文、というようなものであり、堅いものであることは覚悟の上だった。だがそれにしても、これは一般の読者が手に取るにはハードルが高い。完全に学術論文を並べているものだからである。
 著者は、関西学院大学神学部を卒業後、アメリカ留学を経て同大学の講師から教授へと階段を昇った方である。院長や理事長まで務め、エリートコースを絵に書いたようにたどった経歴なのである。無数の参考文献と、それらを読者がさも当然知っているかのような論文の書きぶりが延々と続く故に、よほどの専門家でなければこの論考に太刀打ちできるものではない。1970年代の論文が多く、その後もちらほらと続き、2000年代のものまでまとめられている。ここらで全仕事のダイジェストをまとめようという意図なのかもしれない。そして、それがこの分野での研究において価値あるものと見なされているからこそ、ひとつの本として出版するキカイを与えられたというふうなのである。
 実際、それだけの価値があるものだろうと思われる。著者のライフワークが手際よくまとめられていることになるわけであるが、だからこそなお、そこに流れているテーマなり結論なりは、ほぼひとつの筋に集められている。
 ケリュグマとディダケーというあたりの乖離があまりにも整然となされることについての、著者の抵抗がそこにある。学院長などの立場をもつ著者は、教育書として、新約聖書の中に、教育的効果をどうしても見たかったのではないかと思われる。だから、論考として、一定の証拠を集めつつひとつの結論を出していく、というのが建前ではあるのかもしれないが、どの論文をとっても、初めから、聖書には教育的配慮がふんだんに盛り込まれている、あるいは聖書を教育のためのヒントとして用いるだけの根拠が十分にあるのだ、ということを言いたい意図が、満ちていたように感じる。それは悪いことではない。当然、一定の意図や思惑、願いなどがなければ、研究というものは成立しないからだ。ともかく新約聖書が、ただの宗教的ドグマを塗りこんだ教条の書である、などという冷たい理解をはねつけて、弟子たちを育むための方策がふんだん盛り込まれている、という事実をこれほど多様に執拗に指摘し続ける本も、あまりないのは確かであろう。だからこそまた、類書にない一定の仕事がこの本を通じて世にもたらされるということになるのであろう。
 教育的に用いられるに耐えるための聖書となると、ただのドグマだと見下しがちな人々にも、対抗できる基盤をもつことができるかもしれない。そして、福音書の中のイエスの姿も、たしかに「先生」としてどういう目的や意図があったのか、そこから見つめてみたくなるものでもある。
 前半で、4つの福音書におけるそれぞれ違った角度からの教育的意図が紹介されるが、ここはなにも教育だけに関心がなくとも、広く福音書を理解していくためにも、助けになるかもしれない。また、聖霊の理解のためにも、なかなか考えさせられるものを有していた。教育者でもあるクリスチャンに、実用的に役立つようには思われないが、岩なる地盤としてキリストが私たちを支えているように、この論考もまた、教育者たるキリスト者の基盤として、強い味方になりうるものであろうと思われる。ハードボイルドに耐えられる方は試してみてよいはずである。
 ただやはり、注意すべきことがあって、これらは論文であり、ひとつひとつの術語の解説すらないことは心得ておかなければならない。専門家は誰でも皆知っているはずだからである。もし可能であれば、新しい読者や必ずしも専門知識のない読者のためにも、適宜、用語解説や、せめて用語集などを用意してくだされば、とも思ったが、これ以上ページ数を増やすわけにもゆかなかったのだろう。読者層を広げるためには、それが望ましかったとは思う。




Takapan
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