本

『新約聖書』

ホンとの本

『新約聖書』
G.タイセン
大貫隆訳
教文館
\2000+
2003.2.

 実はある方に戴いた本である。忘れていたわけではないが、なんとなく脇へ置いていて、どっぷり向き合うことをしていなかった。しかし思い立つことはあるもので、いまとても「読みたい」と思えるようになった。そこで読んだが、この意欲というものは正解であった。自分の求めにかなり適応して答えてくれる本となり、一つひとつの言葉に感激することもできた。やはり「時」というものがあるのだろう。
 サブタイトルに「歴史・文学・宗教」とある。宗教とはあまりに当然のことと思われるかもしれないが、当時の社会における宗教的慣習なり思想なり、捉え方といったことについても、理解を欠いては新約聖書を適切に理解することはできない、ということをしていなかった。考えると、この宗教を挙げる姿勢には賛同できる。それは、時代的背景からしか聖書が理解できない、という意味ではない。それを加味して立ち向かわないと、当時の習俗の中で用いられている表現を、いかにも現代的な訳と常識とによって妙に偏った意味で解釈してしまい、その結果ひどく誤解してしまう、という虞が十分あるからである。否、そうした曲げた理解が、さも聖書の真実のようにまかり通っているというのが、ひとつの現代的な聖書理解の王道となっている可能性もある。
 基本的に、当時なぜその言葉や表現が選ばれて使われたか、という点を以て記述を辿らない限り、文字の背後にある霊を見つけたり触れたりすることはできないであろう。それを踏まえた上で、文字に与えられた神的な情報を受け取るだけの霊的能力を私たちはもちたいものである。
 そういうわけだから、たとえば奇蹟というものがどのように捉えられていたのか、についてもその背景から考察する。そして、新約聖書をひとつひとつ読みたどってその意図するところを受け止めようとするのであるが、まずパウロ書簡から入る。それは、パウロ書簡が、新約聖書文書の中で、最初に書かれたものであるからだ。ここは時間順にたどることが、当時その筆者がどんな文献を見てなんの事件を経験して、その言葉を書き綴ったかを理解するために必要な手段となるであろう。すると、福音書において、その謎がかなり明らかになってくることが分かる。パウロ書簡がすでにイエスについての情報として一般了解されていたのであるが、それがイエスの本来であるのかどうか、我慢ならなかったグループがあったはずである。イエスに会ったこともないパウロがいかにもイエスのすべてを知るようなふうに思われているが、地上のイエスの歩みはパウロの知るものとは比較にならないくらい複雑で広範囲にわたっている。それを知る第一世代が地上にいなくなる様子を見ながら、第二世代が何をするはずであるか、そうしたことまで分析しながら、論は進められていく。
 後半ではとくに偽名による手紙が扱われるが、その偽名をなぜ用いるかについての説明は、ほんとうにそのときの様子を見てきたかのように細やかである。そして、人間心理を読み取ったナレーションとなっており、読者としてはわくわくして読み進むクライマックスであるかもしれない。偽名でないといけなかったし、偽名だからこそ誤解されていることを打ち消したかったし、そのうえでなお、自ら偽名であることを暴露するような書き方さえなされている。それがヘマであるのか、計算ずくであるのか、それは著者は明確にしていないように見えるが、そもそも偽名であるということが価値を落とすという考え方自体なかったのだとしたら、そのことにはこだわらなかったのではないかと思われる。
 新約聖書から教会で説教がなされるときには、一部の句が取り出され、それについて説き明かしがある。それはそれでいい。しかし、その一部からだけ全体が敷衍されて推測されても、果たしてそうであるのかどうか、それでよいのかどうか、分からない。その福音書がどういう意図で、どういう配慮をもって記されているかまで視野において、その一部分の表現を味わうことが求められて然るべきであろう。そうして初めて、福音書記者の意図したものを少しでも味わえるということにつながるのではないか。これを30分かそこらの説教で賄うのは事実上無理である。そこで、このように、文書全体について見通した理解と説明を、一定の証拠とともに提示してくれる本がありがたいのである。読者は、その論拠に納得しさえすれば、その世界観のもとに、細かな部分も味わっていくことができる。すると、これまで見えてこなかった、謎のような表現が、生き生きと意味を伴って迫ってくることがあるはずである。
 私は早速、そういう恩恵に与らせてもらっている。もっと早く読めばよかったのかもしれないが、私は、いまでよかったと思っている。いまだから、私がこの本を読むに相応しい状態で読めたのだと思うし、それだけの前提を養ってから読んだということになるのであろうから。価値ある本であった。もちろん、これをすべて鵜呑みにするのではなく、本当に聖書がそうであるかどうか、これから各所を読みつつ、体験していく歩みが始まるというものだ。そういう楽しみも、連れて来てくれた。まことに、ありがたい研究である




Takapan
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