『新島襄 教育宗教論集』
同志社編
岩波文庫
\882
2010.10.
教育者・新島襄の思想や実践を世に普及させること。これが本書の意図だとまず告げる。しかしそれだけにとどまらない。宗教者・新島襄について、実は知られざるもの、隠されたものとなっているので、これを押し出したいというのである。特に後者は、教会関係者でなければあまり興味がない問題であるというのだろうか、一般にはあまり知られていない。
行政へのアピールから、学内での講演、一般での講演などから選ばれた、新島の肉声すら響いてきそうな原稿が幾多並んでいることか。また、教会における礼拝説教も後半多くなる。そのための単なるメモなども取り上げられ、完成原稿でない故に読みづらいところも多々あるが、しかし逆に、何を以て説教を語ってゆくのかの貴重な資料となっている。これは現代の説教者にとっても参考になる。
いずれにしても、正式な書面的原稿ではないので、語るときの勢いや情熱が非常によく表されている。生々しい新島襄の声が感じられるという意味でも、貴重な資料であると言える。
当時の状況というものもある。官立の大学教育が始まっている中で、私立が大切であること。しかもキリスト教主義により行われることに意味があることを新島は強く考えており、訴えている。アメリカ人に対してその趣旨で寄附を募る一方、日本においては、その大学に入学させたが最後キリスト教入信を強いられるような誤解は解かなければならない。そなことはないのだと国内では公言しなければならない。その実内心は……というわけで、新島の心の揺れや悩みまでそこから伝わってくるように見える。
そして、キリスト教伝道への熱い思いも加わってくる。純粋に教会における福音伝道の説教から、これを日本人にどう伝えるかという方法論に至るまで、様々な考えが紹介される。新島は漢籍などにも詳しい。あるいはそれが当時の教養一般だったのだろう。それを使って日本人の心に届くように説明を施すことにもなる。
新島襄は、若くして国法を犯し、アメリカに密入国している。そこで学ぶ中で、キリスト教を受け容れたのだ。そしてこれが日本の次の時代のために必要だと切に思い、その道に浸る。その一途な思いがこうした実りへとつながった。
当時の背景やムードというものがそこにあるのだろうか。決してたんに新島一人だけがユニークにも考えたということばかりではあるまい。どうやら新しい日本のためには、リーダーを育てる必要があると強く求められていたようだ。そのリーダーがキリスト教に基づいて活動するならば、日本はキリスト教の国へと傾いていくに違いないと思われたようだ。キリシタン時代もそうであった。殿様が信じれば部下も信仰者となっていくものである。それを日本という全体で考えていた。だから新島は、いわばエリートをクリスチャンにする必要があるということを熱く考えていた。それを第一に考えて、まずは英語学校、そしてそれを発展させたものとして大学を築いた。教養ある者がキリスト教を信仰することにより、日本は変わると確信していた。
こうした時代的背景のため、今もなお、キリスト教は偉そうな宗教だという受け取られ方が残っていると言える。キリストが、貧しい者や虐げられた者、見下されていた人々の救いのために歩き回ったという聖書の証言が、むしろ違う方向に展開していると言われても仕方がない場合がある。もちろん新島が悪いのではない。そもそも西欧における教会組織が、そのような道をたどってきたのだ。きらびやかな権力の中に包まれた教会が中世のイメージであり、今でもカトリックはとくに巨大な権力を掲げていると言える。プロテスタントは様々あるにせよ、やはり大きくなったものも多い。日本ではさらにその信徒そのものが少ない。新島の考えが今もこの日本に同様に適用できるかどうかは分からない。しかし、日本の国を愛した先人である。このスピリットを感じ取りたいではないか。それに倣いたいではないか。眠りこけた現代の教会は、時代的要請や状況もあり、閉塞された中にあるとも言われる。しかし、今こそ、明治期のこうした破棄有る人々の情熱に、学びたいと強く思うのである。
その意味で、この本に続いて、私は内村鑑三に触れている。