本

『新島襄の手紙』

ホンとの本

『新島襄の手紙』
同志社編
岩波文庫
\903
2005.10.

 同志社大学の関係者は、ほんとうによく調べている。大学創設者となればもちろんかもしれないが、これを少しでも世間に流布すべく、配慮を続けているから頭が下がる。
 新島襄は、きちんとした形での書物を遺していない。その代わりに、手紙が多数ある。個人宛のものであり、極めて具体的な状況に即したものであるが、決して公的な要素を欠いているものばかりということもない。そこに、この書簡集の編集の面白さがある。つまりこれは、新島襄の書物のようなものだからである。
 もとより、全集のすべてを文庫の形で提供できるものでもなく、またそれは意味もない。資料的に必要なあらゆるものを、文庫という手軽なポピュラー路線に誘い込むことはできないからである。そこで、編集作業が必要になる。どれを選ぶか。どれに意義があるか。こういうのは、その道に携わる人ほど、あれもこれも価値がある、と思いたくなるはずである。そこをストイックに選択し、ここに文庫という形で凝縮しているというわけだ。
 明治期の著名人と深いかかわりがあることが分かる。また、当時の書簡というのは、私たちの時代のメールとは訳が違う。そこに漢文の教養も、当時常識的であった面があるとはいえ、必要になる。また新島の場合は、元来英文で書いた書簡というのも多数ある。これらは当然この文庫には、翻訳した形で載せることになる。こういうわけで、実のところ原典が英文であるというものほど、現代的な訳語でここに紹介されており、読みやすいということにもなる。
 決して公的な書簡だとは言えない。だから、私たちにとり瑣末なこと、記録性のほか役に立てようがない部分も多数ある。しかし、新島の人となりが、見え隠れする言葉を見出すのはことのほか喜びを授けてくれるように思われる。書は人をあらわすというが、手紙というのも、その人をストレートを表現する。もちろん、手紙だからかしこまっているという側面がないわけではない。だが、言葉遣いや配慮など、やはりそこには個性が表れていると言って差し支えないであろう。
 ここに集められた96通の書簡は、新島の生涯をほぼ順に辿るものとなっており、新島のものの考え方をよく伝えている。全集からの選抜とはいえ、これだけで十分その生涯についてひととおり辿ることができるというものだ。
 特にキリスト教世界への熱意、しかも教会合同に対する新島の厳しい批判と嫌悪が、実によく現れていた。それも、もちろんただの個人的な好みということではなく、日本においてキリスト教が働くためにどうあるべきなのか、自分なりの理想に基づいてのものであった。聖書解釈によってどうのこうの、といったような、今風にありがちなドグマの間の衝突などではない。それは日本を睨んでいた。その意味では、内村鑑三の熱意と方向性が違うわけではない。ただ内村と違い、新島は、経済界や政府の要人との折衝に明け暮れる。大学設立という、公的な働きを必要としていたからだ。だからまた、よけいに交渉や各地の奔走に縛られることになる。これが、必ずしも健康体と言えない新島の寿命を縮めた。そのあたりの様子も、書簡という形を通じて私たちの目の前に人物が再現とされている。
 日本のキリスト教についての憂いも含め、その教育というあり方についても、光を投げかける。ただ、この本一冊ではその理解は薄いかもしれない。同じ岩波文庫に、新島襄の資料がいくつかあるので、それらをトータルで見て、こうした書簡の意義を掴むようにすると、スムーズに読むことができるだろう。
 気骨という言葉を私たちが顧みなくなって久しい。病弱な若者であるかのような新島襄の中に、私は福音の気骨者を見出すような思いであった。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります