本

『N/A』

ホンとの本

『N/A』
年森瑛
文藝春秋
\1350+
2022.6.

 文芸誌で、ずいぶんと売りにかかっていた。手に取ると、値段の割には薄くて、1頁あたりの文字もえらく少ないという気がした。文學界新人賞受賞作だということもあり、原稿用紙100枚を超えるあたりの分量であろう。
 松井まどかは、深刻な拒食症ではなく、健康上さほど影響が出ていないために、普通の生活を営んでいる。但し、生理を拒絶している。この、安全でありつつ危ない立場にあるという女子高生が、物語のイニシアチブをとる。途中、微妙に他者の視点が入ることがあるが、ほぼまどかの視点で場面は展開する。女子大生のうみちゃんと「かけがえのない他人」同士の関係にあると理解している。中高一貫の女子校では王子様と担がれ、女子にモテた。バレンタインデーの時に大騒ぎになっている場面も描かれるが、「かけがえのない」というような人との出会いはなかった。それが、教育実習生として現れたうみちゃんから誘われて、特別な関係になる。しかし、やがてあることを知って、まどかの方からこの関係を壊すように動く。そして生理が来たことからの煩わしさの中で、うみちゃんと再会する。
 気の利いた描写が目を惹く。村上春樹も、おっと気を惹く喩えがふんだんに出てくるが、本作品でも、なにげない叙述が、私たち読者の中からは出てこないものであるために新鮮に感じられる、ということが多い。1行目の「わら半紙が光って見えたのは十三年の人生で初めてだった」というところから、引き込まれるのを覚えた人も多いだろう。そこは、生理を拒むきっかけになった出来事の、ほんの小さな描写である。場面はすぐに現在に飛び込む。
 もちろんストーリーを紹介するのが、いまここでするべきことではない。本の魅力をお伝えできれば、と願うと共に、私ならではの気づきをも提言できたら、と思っている。
 時代はもちろん現代なので、LINEやインスタで活用されるのは当然であるし、それが物語の展開に大きな影響を及ぼすことにもなっている。女子高生らしい単語が随所に飛び交い、その辺りに普通にいるような女子高生世代の雰囲気を出そうとしているようである。「うわー」「そっか」「だっさ」などは当然であるが、「あけおめ」などはまだ使う子がいるのかどうか、知らない。「りょ」ですらなく「り」になっているのは、執筆当時の動きなのだろう。すでにいまそれは過去のものとなっているようだから、こうした新しい言葉を取り入れるのには勇気がいることだろう。
 それはいいのだが、そうした口調で雰囲気を出している割には、よく見ていると、考えている文はもちろんのこと、会話の文も、ひじょうに整った文ばかりなのである。時には、これは書き言葉が並んでいるとしか言えないところも多い。もちろん、生の高校生の友だちの親しい会話を、そのまま文字に起こして記したのであれば、とても読めたものではないだろう。だが、通常の落ち着いた小説の中に、ちらほらと新語やくだけた言葉を交えたことが、果たしてリアリティであるのかどうか、少し考えさせられるのである。いうなれば、和食のおかずの端にエシャロットをひとつ載せたことで、フランス料理感を出そうとしているようなふうにも見えたということである。
 先ほどの「り」もそうだが、そのときには最先端に見えたような言葉も、あっという間に過去の遺物となっていく。賞に選出されたときにもてはやされた言葉が、刊行された時には古さしか感じさせないということもしばしばである。まして、その言葉で雰囲気を出そうとしたとき、現在感をもたらすことに失敗してしまうということは、言葉の宿命のようなものであるかもしれない。
 文体や使用する語というものは、難しい。不安定な若者の心理を描いたのだという点については、異論を挟むつもりはない。分からなくもあるし、考えたいと思う面もあるし、また、二十代後半の作者のこの叙述が、当の高校生からみてどうであるのか知りたい、とも思う。そうなると、文学とは何なのか、ということにも視線が向かうが、そんな大風呂敷を広げるのも場違いである。「N/A」は計算などの「無効」を示すときにも使われる言葉である。まどか自身の中の「中断」や「不明」といった心を映し出すものであろうと共に、私たちの無駄な干渉に対して「無効」を突きつけてくる挑戦的なものも、感じ取るべきなのだろうか。
 もうひとつ、「おとな」が殆ど登場しない物語は、近年の学園もののアニメにも特徴的だが、若い世代の世界は、ほんとうに「おとな」とは無関係に動いているのかどうか、それも気になるところである。




Takapan
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