『神の喜び、ここに始まる マルコ福音書講解説教集』
平野克己・吉村和雄編
教文館
\2900+
2025.12.
加藤常昭先生が天に召されたのが2024年4月。生前最後の説教を、原稿なしで蕩々と語り続けた車椅子のお姿が目に焼き付いている。「本書は、先生の死を契機に編まれました」と、「はじめに」に記されている。但し、説教塾塾生による説教集は、これで第五集となる。数年おきに編まれている説教集のひとつに過ぎない。
従来は、それぞれの塾生が教会の礼拝で話した説教を持ち寄るような形でつくられていたが、今回は、マルコ伝を最初から最後まで通して選び、ひたすらマルコ伝からの説教に徹している。その意味がはっきりと説明されているようには見えないが、同じ「はじめに」に、「マルコは、自分の師、ペトロの死を契機に筆を執りました」と書かれてあることが、上記の文と対句になっている点を見逃してはならない。
「あとがき」が終わるのが564頁。読み応えがある。こうした説教集は、読み急いではならない。一日ひとつ、が原則である。ちょっと訳あって、最後の短いものを一日にふたつ読んだことを例外として、私はずっとそのペースを守った。一日に、恵みはひとつでよいと考えているからだ。説教が伝えることを噛みしめて、一日を過ごしてゆく。そこに、意味がある。
長さは、ひとつの説教が平均10頁ほどだが、長さはまちまちである。また、説教の最後には、その説教がいつどこで語られたかが記されているが、時折(未発表)というものも見える。恐らく、マルコ伝を網羅するために、すでにある原稿を集め、取り上げられていない箇所を、他のメンバーが分担して生めたのではないか、と邪推する。その中には、現在マルコ伝の連続講解説教を続けている人がいて、まだその聖書箇所にまで至っていないという場合があって、きっとその原稿を活かして、礼拝でもマルコ伝のそこを語ってゆくのだろう。
50人余りの塾生も様々であるから、説教が一様であるわけではない。これが特定の人の説教集であれば、終始似通った視点や語り方があろうというものだが、本書だと正にアラカルトという具合に、様々な味わいが楽しめる。しかし、とにかく説教塾で共に研鑽する方々であるから、福音という視点からして外れるものはない。その上で個性が光り、それぞれの置かれたところに於いて、同じ神から受けた恵みを、存分に私たちに届けてくれる。ありがたいこと、この上ない。
そして、マルコ伝という題材に限っているから、私たちはマルコ伝を知る、という機会にも恵まれている。同じマルコ伝連続講解説教として、加藤常昭先生の説教全集が三冊にわたり編まれているが、思えばそれは、この一冊分にあたる内容を、三冊も使って語っているのだから、どれだけ深く、広くマルコ伝を語っていたか、ということに気づかせてくれる。
どうしてこれが「神の喜び」という題を掲げているのか。それは、「喜びの知らせ」という意味を、「福音」という言葉に理解しているからである。本書は、寄せ集めた説教の中に、説教塾という交わりの中に貫かれた、ひとつの霊が、ひとつの祈りと共に縫い込まれている。それは「福音」という合い言葉によって、人の魂に食い込む力をもち、人の生来のものがすでに死んでいること、そしてそこに神の命が吹き込まれ、その人が生きるものとなること、そうした出来事を孕んでいる。
なんと美しいことだろう。なんと喜ばしいことだろう。こうした「福音」に、二ヶ月弱浸ることができたことは、たいへん幸せなものであった。
私は、多くの本を、ペンでラインを引き、特定の語に偶にイエローマーカーを付ける、というスタイルで読むことにしている。将来古本屋に売る価値など想定していない。自分がいつ開いても、自分にとっての要点に目が向くためである。また、読みつつも、そうしたラインやマーカーというもののために、その文を二度、三度と読み直すことになるためである。しかし、本書にはそれができなかった。なんだか、汚したくなかったのである。だが、それではいま挙げた効果がなくなる。そこで、フィルム附箋を、ここぞという行の上に貼った。フィルムの色により、自分の思惑というものを替えているから、たとえば赤の附箋は、最も重要と自分で思われたところ、紫の附箋は、人間の悪いところの最たるもの、というように、ある程度のルールを以て貼っている。本書のそのフィルム附箋は、殆どハブラシの毛のようになっている。相当にカラフルなハブラシとなっているが。
私も一度でいいから、このような説教を語ってみたい。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド