『加藤常昭説教全集11 マルコによる福音書2』
加藤常昭
ヨルダン社
\3204+
1993.7.
もうこのシリーズについては、三度ほどここに記している。だから加藤常昭先生についてなど、ご紹介することはする必要はないだろう。本書は、マルコ伝の連続講解説教の、7章から11章までを収めている。全体で400頁を超えるが、類書の中では比較的薄いほうだ。
一つひとつの説教は長い。概算すると、原稿用紙30枚を超える。さっさと話しても、30分はかかる計算になるから、加藤先生だとその5割増しくらいの時間を要したのではないかと思われる。これは今風の説教からすると、耐えられないくらいの長さであるかもしれない。しかし、私はこれくらいであるべきだ、と考えるし、自分の想定でもこのくらいだ。
この説教集を、毎日寝る前に味わってから眠る。こういう毎日を続けていると、幸福感を覚える。そして、やはり自分には才能も霊性もないのだ、ということをひしひしと感じる。
今回、このうち二つの説教を概観しよう。ひとつは、十字架の予告をする場面で、その直後に、「いちばん先になりたい者は……仕える者になりなさい」と教え、子どもを抱き上げ、子どもを受け入れる者はわたしを受け容れるのだ、とイエスが言ったところである。
イエスは「人々の手に引き渡される」と言ったが、この「人々」を他人事として読むべきではない、と語ります。それは「皆が」なのだが、そこに私自身がいることを確認しなければならない、と言う。自分を除外してはならない。
また、学問の言葉ではなく、生活の言葉をこそ説教で語るように神学生に教えた話を持ち出すが、自分の生活の中に、主イエスを自分が殺すということを明確に意識すべきだ、とする。
関根正雄先生が午後、教会で講演をするという。先生のもつ回心の体験、そこには「罪」が伴っていなければならない。私たちは「罪人としての知識」を知らねばならないのだ。神学生は、教会の尤も低いところに立つことを、体で覚えるべきである。教会の指導者になるというのは、そういうことなのだ。
私たちは、苦しむ人を見ないふりをして通り過ぎるだろう。だがそれは、主を無視することにほかならない。そうした罪の自覚の先には、神に帰ることの喜びがある。
あまり話があちこちに飛ばずに、ひとつの焦点に絞られて、しかもぐいぐいと胸の奥に迫ってくるものだった。説教題は、「人間の偉さを問う」というものだった。
もうひとつここで選んだ説教は、「いのちを問う」というものである。こうして私に迫ってきたのは、どちらも「問う」というモチーフから成っていた。
イエスの許に、永遠の命を受け継ぐには何をすればよいか、と尋ねた人がいた。イエスが十戒の一部を挙げると、それはもちろん気を付けて実行しているという。そこで、持ち物を売り払い貧しい人々に施せ、とイエスが言う。この人は、悲しみながら立ち去った。そこでイエスは、弟子たちに話す。財ある者が神の国に入るのは難しい、と。弟子たちは、誰が救われるのかと恐れる。イエスは、神には何でもできる、と口にする。そこへペトロが、何もかも捨てて従ってきました、と進み出る。イエスはそうする者の報いを語る。さらに、また死刑になる予告をし、復活する、とまで言う。
この箇所は、2週連続で同じ箇所から語られている。一度では語りきれないとき、加藤先生はこのように2週、3週と続けて同じ箇所を引いて、別の説教を語ることがある。そのくらい読み込んでみたいものだ。否、そのくらい、恵みを引き出したいものだ。恵みは、実は誰にでもそこにある。ただそれに気づく素地が自分にあるかどうか、が問題である。そして説教というのは、そのようなことに気づかせてくれる営みなのである。
ここには、絶望して立ち去った男の話がある。だが、ここに自分を見い出さないか。むしろ、この男は、自分には全財産を捨てることなどできない、ということを認めた分、正直である。私たちは、ごまかしていないか。二股をかけ、中途半端に信仰を口にしているのではないか。正に、その通りだ。私たちは、教会に来て、重荷を下ろすどころか、憩いを得ることができず、不満な心をもっていないか。幼子とは違うのではないか。
この悲しみつつ去った男は、解き放たれることを求めていたのだと思う、と説教者は言う。永遠のいのち、というものが、解き放たれる道であったと見たらどうかと言うのだ。。主は、彼をじっと見ていた。
私たちは、この主の眼差しと思いとを知るならば、福音というものが喜びの知らせであり、そのために喜んで捨てるということも、きっとできるのだと言う。つまり、喜びの中に真に立っているのならば、ほかの価値はそれよりも下に置かれるはずなのだ。
マルコは実は、不思議な書き方をしている。「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」と書いている。別人のことを言っているわけではない。真剣に、従おうとするときに初めて、こうした恐れを知るものである。復活の記事で、女たちが恐れたのもそうだった。しかし、女たちはその後、あれは怖かったね、と話をしながら、復活の主に会えた喜びの中に生きたに違いない、と理解する。
ところでこの立ち去った男は、その後どうなったか。マルコは記さない。愛する眼差しをこの男に贈ったイエスの愛は、このとき終わってしまったのだろうか。説教者は、十字架と復活の後、この男にも光が射したと信じたいし、信じてよいと思う、と漏らしている。
なにぶん、読者たる私たちが、十字架の救いの中に立つのならば、この男を絶望のままに終わらせてよいと思うだろうか。このように大胆に踏み込んだ想像を、信仰の心と共に交えながら、さらに続ける。私たちは、子どもにイエスが触れたという事実を知っている。弟子たちは、このイエスに触れて戴いた者ばかりである。信じた私もまた、必ずや触れられたはずである。だからこそ、私は従うことができた。喜びが与えられたのであり、そこに教会が生まれたのである。神に献げることも、それだからこそできたのである。
時折、説教を準備するのにどのようなことをするか、垣間見せることがある。どのように読むか、それは自分で原語から訳してみるということはもちろんのこと、様々な人のその箇所に関する説教集を開いたり、注解書を繙いたりする。なによりも、祈る。その中で教えられる。自分の語るべきことが示される。
全く、畏れ多いものである。私のように、生半可な思いつきで御託を並べるのとは、雲泥の差がある。でも、このような命の説教とは値打ちが月とすっぽんほどに違っていても、同じ命を戴いている者として、私もまた、語ることを止めないでいたいと願う。素晴らしい説教集から命を注がれていながら、それをここで堰き止めているだけではならないと思うからだ。流れ込むだけでは死海のようになりかねない。命の泉は、湧き出すものである。粗末すぎて申し訳ないにして、私はまた、語ることも、恵みとして与えられているのだと信じたい。

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