本

『宮田光雄集「聖書の信仰」W国家と宗教』

ホンとの本

『宮田光雄集「聖書の信仰」W国家と宗教』
宮田光雄
岩波書店
\2800+
1996.10.

 宮田光雄集は全七巻からできているが、その中央に位置する本巻は、力のこもった一冊である。政治学者としての働きの本領発揮というところでもあるが、政治を論じたとは言えない。むしろ徹底して聖書に追随している以上、このシリーズの副題「聖書の信仰」に相応しいものとなっているのだが、では聖書の信仰において「国家と宗教」とはどういう意味をもつものだろうか。日本社会でのそれは確かに深刻である。そういう歴史を刻んでいる。しかし、さしあたりそれを表に出そうとしているわけではない。
 ここにあるのは、ローマ書13:1「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」から始まる、7節までの一連の、支配者への従順を説いたパウロの言葉に徹底的に的を絞った議論である。それが歴史的にどのように受け取られてきたか、これを私たちに示し、またその評価をなそうとするものである。
 古代から中世ではどうだったか。宗教改革の時は。近代国家の中でこれはどう検討され、あるいは利用されたか。それは世界大戦の正義へと続いていく。もちろん、これらは西洋文明のもたらしたものである。人はそもそも、神を掲げて戦争をした。戦争に勝利した神が正義の神であった。これを覆したのがユダヤ教でありキリスト教であったのだが、人間はまるで神を利用して、自分たちが戦争を起こすことを正義だと示したかったかのようであった。否、おそらくその通りであろう。そのためには、神の言葉とされる聖書の言葉をすら、自分の目的のために「解釈」してしまう。
 これに対する憤りが、著者にもあるだろうか。その熱意が、このパウロの短いフレーズのために、膨大な資料を集め多大な時間を用いて、これだけの本を完成させたのだろうか。
 西洋社会についてはこの流れであるが、もちろんこれだけで終わりはしない。終わりの50頁を、著者は日本社会へ向けてこの聖書の言葉を重ねている。本来それは無謀である。日本社会は、パウロを根底に置いて成り立っているわけではない。だが、日本社会にも近代においては、聖書を知る者がいた。内村鑑三のように、途中から平和のみという思想に変わった人も含め、概ね軍部の制圧には抵抗の姿勢を示したが、その中でも、自分の身分を捨てても反対したという声があった。こうした人を適切に評価し、また知らせることの必要性を著者が覚えたというのかどうかは分からないが、私は強くそう思う。誰もが知っているよね、と思っていたところ、若い世代はもう何も知らない、というようなことすらよくあることである。キリスト者としての先達のことも、それを知る世代があったかもしれないけれども、次の世代に伝えていかなければ、誰も知らなくなってしまう。そのためにも、この本の終わりの部分は、西洋の歴史を問うものよりも重いものだと私は感じている。西洋での戦争論は世界中で語られているが、日本における戦争と平和の聖書的議論は、そうどこでも見ることができるものではないからだ。
 実際パウロは、国家に服従せよという言葉を告げている。それは時代的な背景や信徒の置かれた情況を含むものであったはずなのだが、それが後世の歴史の中で、つまりパウロが全く知りも想定もしなかった歴史的状況の中で受け取られるときには、パウロの想定した表現が全く別の意味になって利用されていくことすら当然ありうることだったと思われる。これを受け継いで理解していくのは、後世の私たちの責任である。しかも私たちは、その解釈史をも手にしているわけで、さらに重なった意味理解の上で、現在と未来を築いていくことになる。そしてその未来とやらも、やがては過去になる。その時に、私たちの解釈がどのような評価を受けることになるのか、それはよく分からないとしか言えないが、できるならばそれが黒歴史にならないように、心してこれまでの歴史から学んでいきたいものではないだろうか。
 そのためにも、このように歴史を史料から納め、しかも個人的にもそれに相対して意見を述べるという整理のあり方は貴重である。なかなか誰もができる仕事ではないので、私たちはもっとこうした労力に敬意を払い、学ばなければならない。あまりにも軽く見られていやしないか、危惧するものである。




Takapan
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