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『マチウ書試論――反逆の倫理――』

ホンとの本

『マチウ書試論――反逆の倫理――』
吉本隆明
小学館(昭和文学全集27内)
1989.3.

 マチウとはもちろんマタイである。イエスはジェジュと呼ぶ。フランス語読みは衒学的であるように思われるかもしれないが、信仰者の口にするマタイやイエスというところから距離を置いた配慮あるいは自分のスタンスというものであるのだろうか。
 吉本隆明は労働運動に燃え、輸入された共産党には幻滅していく。その中で、信じるものが欲しかったのかもしれない。聖書に対する探求心は並大抵のものではない。本書はそこらのクリスチャンよりはよほど聖書を読み込んだ、若い思想家が織りなす、闘いの書である。それは吉本隆明の名が知られるための初期の注目作となった。
 マチウがメシアをつくりあげた。ジェジュはつくりあげた象徴的人物にほかならない。このようなことから始まる論考は、結構な長さである。論考とは言っても、何かしら論拠があるわけではなく、著者の構想した枠の中に勝手に当てはめて説明を尽くしたというあたりが妥当な理解であろうと思われ、聖書から流れてくるものは何も感じない。
 恰も実在の人物であるかのように描いた、それで話を終わることもできるのだが、そこに意味を見いだしてみよう、という触れ込みである。なんとしても福音書の間には無数の矛盾がある。人類最大のひょうせつ書であるという大胆な宣言は、もしかするとそここそが、当時の若者たち、つまり権威というものに一切背を向けるばかりだった学生たちに、歓迎されたのかもしれない。
 それでも、吉本は聖書について相当な探究をしており、聖書批評などをよく読み、またもちろん聖書そのものも穴が開くほど見つめている。それはよく分かる。ふと見ると、自由主義神学の本ではないかというようにさえ見えてくるのである。伝統的な聖書理解に抵抗して出されたようなあらゆる説を彼なりに吸収していることは間違いない。この成果は、太宰治について論じたものにも、確実に活かされており、それだけ勉強をすれば、太宰が読んでいた聖書というものとそこから受けたものなどについての理解も進むはずであろうと思われる。
 論考は、マチウ書の最初から一つひとつの場面を実に執拗に辿っていく。その都度マチウが巧みに創作して描き上げていくメシアの姿を私たちに見せてくれる。伝統の権威を蹴散らし嘲笑うかのように。そこにはルナンの本をよく読んだような様子も窺える。ルナンよりもっと露骨な表現を使うが、吉本の意図からしても、その本は大いに助けになったことであろう。
 申し訳ないが、その一つひとつを取り上げて紹介する暇はない。信仰的に参らない人であれば、自身で吉本の圧倒的な叙述に立ち向かってみるとよい。ジェジュの死と復活の物語の創作については、黙示録との関係を指摘し、むしろそれこそが原始キリスト教の思想の契機であるとするなら、新約聖書の最初にこそ置いてこそ然るべきだ、などという挑戦的な姿勢も表す。そしてマチウは、キリスト教を迫害するユダヤ教の姿を、憎悪をこめて描いていると指摘する。
 ドストエフスキイの『カラマゾフの兄弟』も登場させ、その信仰的解釈は否定し去るものの、原始キリスト教の思想の特質をある面捉えていると言い、自分の論の助けとなるならば何でも用いようとする。こうした姿勢も、当時の若い世代に受け容れられるひとつのスタイルであったのかもしれない。しかしユダヤ教に対する憎悪の核心は、「ユダヤ教が律法を人間の生きることの意味と調和させ、そこに現実的な社会倫理をうちたてることで、現実と信仰とを一元化していることが癪にさわってしかたがなかったからだ」というように指摘し、「神と人間との距離の大きさという意識を、如何に信仰の課題として転化し、再生するかが、原始キリスト教の最大の問題であったとも言いうる」とも言う。
 福音書の終わりまで行った後に、もう一度重要なところを詳しく論じる。山上の垂訓を中心に最後に詳しく見ていく。たとえば、「精神的な貧者が幸福であるという意味は、マチウの作者によれば、心情の最低線に立たされているものは、うしろにたえず絶望があるだけだから、まえには、心情を充足させるたくさんの可能性がのこされているとおなじだということである」というような具合に解釈を呈する。これは「異様な病理」ですらある。
 社会的倫理性を捨てる原始キリスト教。だんだんと、そう叫ぶ吉本自身が、このマチウに重なってくるようにも見えてくる。マチウを徹底的にコケにしているような論考である。しかしそれは、キリスト教を批判している、揶揄している、というものとは違うような気がする。労働運動に加担し、指導さえしても、結局組織に破れ孤立していく経験を吉本はすでにしている。悲惨さと不合理さを、自分なりに体験しているのだ。「現実の秩序のなかで生きねばならない人間が、どんな相対性と絶対性の矛盾のなかで生きつづけているか」を語るマチウ。「革命思想を信ずることもできる」し、「嫌悪することも出来る」。自由な意志の選択があるからだ。「しかし、人間の情況を決定するのは【関係】の絶対性だけである。ぼくたちは、この矛盾を断ちきろうとするときだけは、じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき、ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とは何か。もし人間の生存における矛盾を断ちきれないならばだ」と吉本は最後のほうで叫ぶ。彼の持ち味である「関係の絶対性」という言葉を謎のように置いて、自分を惨めにしたものへの怨念というよりは、自己批判を以て自己を超克しようとする吉本が、次の視野にすでに立っていることを、ここに垣間見るものである。




Takapan
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