本

『マチネの終わりに』

ホンとの本

『マチネの終わりに』
平野啓一郎
文春文庫
\850+
2019.6.

 少女系のマンガと言ってよいだろうか、「キュンキュンする」という表現がひところよく用いられていた。しかし大人だって、キュンキュンしてもよいのではないか。本作品は、そのような物語であると私は感じた。私自身が、ときめいたのである。  2016年に単行本として出版され、2019年に映画化されている。映画の存在は知っていたが、結局上映館で観ることはなかった。コロナ禍に入る前に観ておけばよかった。が、いまこうして小説を先に読んでから、ネットで観るという順番になったことは、私にはよかったことだと思っている。
 例によって、ここで話の筋道を紹介してしまうことはタブーと考えているので遠慮する。だが一般に公開されている程度の紹介は許されると考えている。
 まず書き出しが面白い。これは現実の人物の物語である、という前口上があるのだ。ドストエフスキーなど、こうしたやり方が流行ったときもあったことだろう。ひとつ引いた形であるかのようで、そこに作者という視点を強く印象づける、ひとつの「語り」の文学となることを狙っている。だから、もちろん神の視点で書かれており、心理描写も、リアルではない。つまり「後に彼が云々となることをまだ知らないでいた彼女であった」というふうな書き方が許されるのである。尤もこれは、平野氏が他の作品でもやっている手法であるらしいのだけれども。
 世界的なクラシックギタリストの蒔野聡史が、ジャーナリストの小峰洋子と出会う。共にアラフォーであるが、互いに通じるものを感じる。洋子には婚約者がいたが、蒔野は自分の中に、洋子への愛があることを知る。言葉はメールやスカイプで交わされるが、世界を駆け巡る二人が実際に会うのはごく稀であった。テロ事件の際にすんでのところで命拾いをする洋子は、心的外傷を受けることになり、そのとき、蒔野を密かに愛する、マネージャーの三谷早苗が、この物語を大きく動かすことになる。まさか、というように。
 このため、映画だけを観た人は特に、この早苗をぼろかすに言う場合が多いという。確かにヒール役かもしれないが、それは洋子に肩入れする、ありがちな視聴者の感情ではあっても、それがどんなにこの物語に芯を通しているか、それは落ち着いて小説を見れば分かる。これから読む方、観る方は、お楽しみに。
 平野啓一郎が直に語っているごとく、物語は、恋愛小説であるということは否めないにしても、そこに様々な問題を含み持つものとなっている。社会的な話題もある。他方、親と子の問題が、多重に描かれていて、興味深い。年老いた親が、離れて暮らす中で、それぞれ娘と関わるところも熱いが、幼子に対する、日本だけではない親目線の考え方、さらにこれから生まれてくる子への眼差しも、言葉は悪いがぐちゃぐちゃに絡まってくる。
 様々な音楽が、小説の文字からも聞こえてくるかのように描くのも大変なものだろうが、読者に「ヴェニスに死す」の理解を前提としている辺りも、奥の深さを示している。幸い私は知っていたので、物語を読むのに非常にスムーズに感じるところがあった。さすがに引用のリルケの詩は知らなかったが、リルケという人の本は多少読んだことがあるので、抵抗なく入っていけた。文化の問題も、哲学に関心があればそれなりに領域内にあるし、親子は私は子でもあり、親でもあるということで、いろいろな立場で読むことができた。罪な振る舞いについては、いくらでも分かる。人間の弱さについても同様である。しかしそれはただ欲にまみれた目的で、いかにも安っぽい犯罪小説がパターンで描きたがるような単純でステレオタイプの動機がそこにあるわけではなく、自分の狭い生活半径の中で自己を中心に置く視野をもって生きる立場の人間が、世界を移動しながら様々な国の人々と交流する人間と、世界観を異とするというだけのものである、と捉える方がよいように、私は感じている。この点を弁えて味わうならば、この小説は、隅々まで感じ取っていけるような気がする。
 もちろん、こう読まねばならない、というルールはない。誰に身を重ねて読むかによって、読み方自体も変わってくることだろう。ただ、ここに出てくる人物は、基本的に「おとな」である。青春小説や若者の勢いや情熱をエネルギーとするようなものばかりに馴染んだ人だと、落ち着いて読みづらいかもしれない。アラフォーという時期を設定した作者の思惑も、憎いくらい物語に合っている。その意味で、やはり「おとな」の物語なのである。
 ラストはさらに含みが大きい。そこからどうなるのか、有り体に言えば続編が欲しいという感じなのだろうが、どうとでも転ぶような場面で終わる以上、その先は、読者の心の中に委ねられている、とするべきであろう。私は、その意味では、このラストシーンこそが、この物語の「終わり」なのだろうという読み方をしている。これ意外の終わり方はないのだ、ということである。もちろん、その詳細をここで説明することはできない。
 なお、新約聖書にあるマルタとマリアの解釈の話が、物語の結末へ流れる場面で大きな役割を果たす点も付け加えておく。話す二人の立場を反映しているものとして、少し心をくすぐるものがあった。登場人物は信仰をもつ者たちではないが、信仰者を描くというのは、平野氏にもまだ難しいものだっただろうか。
 それから、物語の鍵についてはこういう箇所で明らかにしてはいけないとは思うのだが、やはり、強く響くものについては、備忘録のような意味で少し触れさせて戴こうと思う。私たちは、過去は変えられないが、未来は変えられる、と口にすることがある。理屈の上で正しいように見える。が、実はそうではない、というのが、私には一番大きな考察点ではなかったかと考えている。主観的な意味でのものであるかもしれないが、私にもそれはよく分かる。ものの見方というものは、視点を異とすれば、違った命題が現れるという好例であるかもしれない。私たちは、過去の捉え方を、いくらでも変えることができるのだし、またそうであるからこそ、新たに生きることができるのだろうと思うのだ。しかし、この問題については、また場を改めて、じっくり考えるべきであろうと思われる。
 「ページをめくりたいけどめくりたくない、ずっとその世界に浸りきっていたい」小説を目指してきたという平野啓一郎の、思いが詰まった作品として、これは後世にまで語り継がれることになるだろう。
 
 
 ※なお、その後、映画のほうも観た。画面と音との迫力はなかなかのものだったし、登場人物の目の動きというのが、心を物語っていた。後半は、設定をだいぶ変えていたが、時間枠の中で収めるための措置であろう。解釈も比較的限定していたようにも見えたが、背景の理解は、小説を読んでおいたほうが、きっと分かりやすかったと思う。説明は少しばかり不足気味であったかもしれない。しかし、最後は身を乗り出してしまった。変えた過去を抱えて、また未来へ足を踏み出すことに、勇気をもらえたような気がした。




Takapan
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