本

『マルテの手記』

ホンとの本

『マルテの手記』
リルケ
大山定一訳
新潮文庫
\550+
1953.6.

 価格は2014年発行のものである。リルケは詩人や女性への手紙に見る繊細な心を期待できる詩人のひとりであるが、これは唯一の長編小説であるという。いったい小説であるのか、リルケの日記のようなものなのか、線引きが難しい。青年の名はマルテとしているが、作者が別の名前を主役に立てて、実は自分を描くということはよくある。
 手記とあるので、何かここからドラマ性を求めるというのはお門違いではあるだろう。事件があるとまでは言えず、盛り上がったかどうかというとそんなことはなく、最初から最後まで、暗いじめじめした青年の心の中の描写ばかりであるかのようにも見える。
 ひとりパリに来た青年マルテ。孤独な青年だ。その孤独であることを源泉として、言葉が紡ぎ出されてくる。見た風景、心の中に浮かんだ情景がひたすら綴られていく。会話らしい会話も殆ど見られない。すべては青年の心の中の出来事であるかのようだ。
 このような経験は、私にもあったように思う。自分の中の心の会話のようなものをひたすら綴るとすれば、いくらでも長く書けそうだという情景。様々な性格の人が織りなす群像を描くなんてとてもできそうにない。自分の心の中で起きたことをあれこれと綴っていくのなら、従ってそこにストーリーやクライマックスなどを浮かび上がらせることなどできそうにない。
 実際にこのようなタイプの青年がいたかもしれない。だが、やはりマルテ自身の体験や心情というものが、これだけのある意味で退屈な、そして読むと胸が苦しくなるような孤独の思索と生活をリアルに描いたのではないかと感じる。
 ママンについてもだが、人の死が時折描かれる。でも死というものは、この小説の中で隅から隅まで描かれたがっていたものなのかもしれない。過去を思い、孤独を再確認し、死の思いが離れない自分を示す。
 叔母のアベローネに恋心を懐くが、いったい何がどう良かったのか、その辺りもピンとこない。愛するということはどういうことか自分の中で格闘し、一定の結論を出して自己満足してみても、それで立ち上がれるといったふうでもないようだ。
 このように気力のない青年の様子が終始そこに現れてくるのであるが、そればかりを見て小説の価値を判断するのはもったいない。随所に、きらめくような言葉の表現が出てくる。それは日本語訳出会っても、唸るようなことがあるという意味だ。心に刺さってくるような、しかしそう衒った言葉でもない、という体験を、読者は与えられるのではないだろうか。
 神や聖書についてもちらりちらりと出てくるので、やはりその辺りを感じ取らないと、作品についてとやかくは言えないだろう。特に終わりになるにつれ、放蕩息子の譬の中にどっぷり身を浸すような場面が長く続く。これは『ハイジ』にとってもポイントになる聖書箇所である。そこにマルテは、新しい自分なりの解釈を施す。それが自分を正当化するためなのか、自分の真実を投げ捨てるかのように扱うためなのか、いろいろ含みがあるような気もした。
 解説などでも、どうにも暗いこの話は、人生への絶望を促すものかと嫌気がさすような言い方までしているが、悲哀を人生の中に見ること自体は間違っていない。確かにこのような男を相手にするのは、男女を問わず面倒なものであろう。しかし、それを気晴らしでごまかして明るく振舞っているのが人生だとしたら、それもまた空しいように思われてならない。寂寥感であれ孤独感であれ、あるものは逃げずにそこに向き合っていくほうがよいと思う。これだけの寂しい青年から、美しい言葉、心に刺さる言葉がこぼれていたのであれば、それはそれで人生の真実であるのではなかろうか。
 神を黙想するための話ではないが、神や歴史についてある程度考えたことがなければ、大切な部分を見失うことになるかもしれない。その点、新潮文庫では的確に註釈が訳者により埋め込んであった。他の訳でも何かそういうものがあるのだろうか。  孤独である者への偏見をもつ人々へ、青年は精一杯抗議する。人はどうせ皆孤独なのだ、などと言ってしまわないにしても、私たちは実存的な問いを、安易に「暗い」などと軽視するべきではないと考える。読んでいて「ん?」と心に引っかかる表現があったら、そこだけにラインを引くというのはどうだろう。私は今回そのようにして本作品を読んでみた。これは訳としては時代が古いものだが、時折現れる昔の難しい語を除けば、決してそれほど昔という感じはしなかった。読みやすい訳であったと思う。訳者の苦労が実ったと言えるのではないだろうか。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります