『マクトゥーブ』
パウロ・コエーリョ
木下眞穂訳
角川文庫
\880+
2024.9.
1947年生まれの作家の名作は『アルケミスト』だと言われる。少年の旅の物語であるが、世界的に読まれているのだという。これもまた読みたいと思う。
この本も決して新しく書かれたとは言えないが、ようやく翻訳が出たのだということのようだ。そう思ったら、単行本としては2011年にすでにあったという。しかし今回は文庫ということで、より手に取りやすくなっていると思う。
極めて信仰の領域に踏み込んだもので、これはキリスト教の知恵の書ではあると言ってよいであろう。
本の題は中で明かされているが、アラブ語で、「それは(神によって)書かれている」という意味の言葉であるとのことだ。聖書の如くに書いたというのであれば、越権行為かもしれないが、神を信じる心の現れだとするならば、耳を傾けても損はないだろう。確かに、聖書にこの記事があってもおかしくないであろうような短い逸話のようなものが、一冊にずっと並んでいる。
ブラジルの日刊紙に1年間連載されたコラム記事であるのだという。こうした信仰にまつわる知恵が新聞にずっと続いて書かれているというのは、なんとも心強いものである。
その信仰は、ブラジルであるからカトリックによるものである。しかしもちろん信仰の世界にそうした派の違いは気にする必要がない。まず入口に、ルカ伝の10:21が掲げてある。幼子のような者にこれらのことを神が示したとほめたたえている場面である。
それから「まえがき」があり、「この本は箴言集ではない。経験を交わし合う場である」というところから始まっている。実際に出会った言葉だ、というが、本当に身の回りにあった言葉だとしたら、よほど日常で、言葉に対してアンテナを張っていたのだ、と感動する。そのことで大変だった、ということも告白されているが、生活の中に、どれほど知恵と愛に満ちた言葉が、実はあるのだ、ということを思い知らされる。これは、信仰者として私にも与えられた挑戦ではあるまいか。
その中には、「師」との対話も多い。いったいその「師」とは誰なのか、興味があるが、敢えてそれを探る必要もないだろう。福音書が「主」と指すようなことでもいいし、ともかく出会った人のことをすべてそう呼んでいてもいい。
時折、詩人の作品を引用することもある。そこにインスピレーションが感じられたのなら、それもまた、神からの言葉であり知恵であると受け止めてもよいのだろう。
それらの代表にするには、ちと趣が違うのであるが、とても分かりやすいシチュエーションの短いものがあるので、ひとつだけ引用させて戴こう。
クリスマス・イブ、旅人は妻とともにもうすぐ終わる一年を振り返っている。
ピレネーの山あいの小さな集落にある唯一のレストランで夕食をとるあいだ、旅人は思い通りに運ばなかったあることについて愚痴を言いはじめた。
妻はレストランに飾られているクリスマス・ツリーをじっと見つめている。旅人は妻が話しに興味がないのかと重い、話題を変えた。
「ツリーの電飾がきれいだね」と声をかける。
「そうね」と妻は答える。「だけど、よく見ると切れてしまっている電球もあるの。あなたはこの一年間にあった輝かしいたくさんの恵みを見ようともせず、明かりの消えた一個だけの電球ばかりを見ているように、わたしには思えるわ」
かと思えば、「真理という名の下で、人類はその最も重い罪を犯してきた」といった重い指摘もあるし、「書きなさい。書けば、神に近づき、隣人にも近づくことになる。……言葉には力があるのだ」という、私の心に沁みてくる励ましもある。
子どもが祈りのとき、「A、B、C、D」と言っていた。ラビが尋ねると、祈りの言葉を知らないのだ、と子どもは答えた。「だから、アルファベットを並べてみれば、神さまはそこからちゃんとした言葉を作ってくださるかな、と思ったんです」。なんと教えられる話ではないか。
私は個人的に、後半になるほどに、磨かれたよい話が多くなっているように感じた。もし本書の最初のほうで首を捻った人がいたら、もう少し我慢して、後半までお読みになるといい。きっと、分かりやすい、きらめく言葉に出会うことだろう。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド