本

『マクロプロスの処方箋』

ホンとの本

『マクロプロスの処方箋』
カレル・チャペック
阿部賢一訳
岩波文庫
\600+
2022.8.

 新聞のコラムで触れられていたので、買って読んだ。なんとも簡単にのせられてしまうものだ。それだけ、紹介の仕方が巧かった、ということなのだろうか。もちろんコラムは、本の販促をするつもりはなかった。書きたかった内容につながるものがあったからだ。しかし、それを読んでいない者にとっては、そのつながりの深さというものが分からない。そうなると、やはり販促めいた意味になりかねないのではないか。
 などともったいぶっているが、この謎解きのような戯曲については、何をどう書いてもネタばらしにしかならない。「ロボット」の生みの親であるチャペックが、この文庫の発行のちょうど百年前の秋に、この作品を発表している。劇場の初演もその秋である。それを思うと、感慨深い。
 物語は、百年前からの土地争いについて、いよいよ決着を付けようとする弁護士事務所から始まる。その争いに、ひとりの女性が首を突っ込んでくる。そして裁判に関する文書に、非常なるこだわりを見せるのであった。
 第三幕までが演じられた後、結末と呼ぶべき最後の場面は、同じ舞台が少しばかり風体を変えて現れることになる。
 物語については、これくらいしかお話しできない。
 しかし帯に記してあるので、鍵になる言葉だけはご紹介してもよかろうかと思う。帯には、こう書いてある。「不老不死」の処方箋とは?
 世界各地で古くから、不老不死はひとつの願望として、描かれ続けてきた。最初からそれを求めたわけではないが、竹取物語のラストシーンにもそれは現れる。私は、手塚治虫の「火の鳥」を通じて知った、「八百比丘尼」がなんとも恐ろしいものとして、心に刻まれている。そもそも「火の鳥」という作品自体が、これをテーマの中に盛り込んでいるともいえる。「未来編」の山之辺マサトの運命は、幼い私に決定的な刻印を押した。
 人は、それを欲するであろうか。確かに欲するであろう。死への恐怖があるからと推測する。だが、それが叶って生き続けたとしたら、どうなるだろうか。精神的に堪えられない一面が生じ、それは全存在を終わらせるように意志しないだろうか。自分の中でもこうした思考が対立し、また議論をするかもしれない。
 戯曲というのは、それらを別々の人格によって語らせることができる。ドストエフスキーの文学はポリフォニーに喩えられ、各人それぞれが、決して溶け合わないままに、それぞれの人格や思想を述べ合う形式をとっている。だから、いかにロシア名が馴染まずややこしいと思えても、各人の個性は明瞭であるだけに、その長編小説も読みやすい一面があるのである。戯曲でもそうすることは可能であろうが、本作だとそういうわけでもないようだ。各人はありきたりの思いつきを述べ合うものの、ものいわぬ何かに導かれるかのようにして、ひとつの方向へ流れていく。従って、戯曲は最終章に至って、急ピッチで展開していくような印象を与える。もったいぶった前半の苛々を、一気に解消するかのようである。
 巻末の「解説」には、こうしたテーマに触れる内容もあるが、バーナード・ウィリアムズがこの作品に取り上げられたテーマを哲学的に深く論じていることや、作曲家のヤナーチェクがどうしてもこれをオペラにしたかった逸話など、興味深いことが必要十分に取り上げられている。だからどうか、作品を読破した上で、「解説」をお楽しみ戴きたい。
 日本でも、すでに1927年に翻訳が出ていたという。「処方箋」のところは曖昧な語であるため、これまでには全然違う言葉で訳されていた。「処方箋」としたのはこの訳が初めてのようだ。この時代、第一次世界大戦後でヨーロッパが著しく絶望の中に陥った空気の中で、チャペックはこの作品を記した。同じ時期、バーナード・ショーも、同じ題材で戯曲を発表している。疲れ、あるいは病んだ時代精神が生んだ、だが普遍的な課題を含んだ作品であるといえるだろう。
 そうなると、キリスト教がもたらした「永遠の命」とはなんであろうか。簡単に説明などできないからこそ、信仰の事柄であるのだろうとは思うが、キリスト者はこれを、「不老不死」と一緒くたにするようなことがないように、と願うばかりである。




Takapan
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