本

『汝の敵を愛せよ』

ホンとの本

『汝の敵を愛せよ』
マーティン・ルーサー・キング
蓮見博昭訳
新教出版社
\550
1965.5.

 えらく古い本を持ち出したこと、ご寛恕願いたい。
 古書店で見つけたのである。そして、この定価すらもはや当時のままであり、消費税すらついていない。当時とはいっても、私の手に入れたのは1972年の12版である。これだけ版を重ねたというのだから、よく読まれたのであろう。価格も安くはなかったはずである。300頁近くあるから、いまだと2000円くらいは十分するだろう本である。
 表紙には、キング牧師の顔が大きく、赤系統に染められたデザインで掲載されている。彼の暗殺を暗喩しているのかと思ったが、しかし本を読んでそうではないことが分かった。そもそもこの本は、まだキング牧師が存命中に出版されているのである。この12版のときにはすでに四年前に他界していたから、解説などにも付け加えてよさそうなものだが、改訂ではない故か、一切そのようなことはせず、あたかも死んでなどいないかのように、今もなお活躍し云々というような書き方がなされている。
 2013年の夏、ワシントン大行進から50年を数えた。キング牧師の名がニュースで取り上げられるが、それは海外のニュースのひとこまとしてである。日本人にとり、それは歴史の中のひとつの記念のようにさえ見られているかもしれない。だが、キング牧師の子である方が、差別は決して終わっていない、これは記念日として感傷的に祝われるようなものではない、と明言した。今もなお、解決している問題ではない、と言っていた。
 この本は、説教集である。まえがきによると、説教は語られるものであり、文字にするというのは好まない、と本人が言っている。語られる説教の場における力を、文字にして距離を置いて見るべきではない、という考えは、理解できる。だが、音として消えていくもの、あるいは録音などがされていたにしても、一定の設備や機械などのもとでのみ再現されるものというばかりでなく、いつでも取り出せる、いやいつでも出会えるような本や言葉という形態は、否定してしまうには惜しい。なによりもキング牧師は、語られたとおりに伝わるかどうかが、文字にすると分からないので不安だというようなことを述べている。しかし、その内容を知りたい、写しはないか、という多くの声に応えるためにも、出版を決意したのだと記している。これは実にありがたいことだった。時を超えて、私のもとにもこれが伝わったからだ。
 キング牧師の説教は、聖書の講解ではない。聖書の中のひとつの句だけを取り上げて、そこから現代を生きる私たちの問題に光を照らし、私たちの今の生き方を考えさせようとする。スポルジョンも形式は似ている。聖書の引用箇所は殆ど一節のみである。ただ、スポルジョンは、あくまでも聖書が何を言っているか、それを私たちの信仰生活にどう活かすか、というところに関心があるのに対して、キング牧師は、より社会的な、政治的な次元の問題に結びつける傾向がある。その意味では、これは聖書の釈義だとは言い難い面もある。しかし、それは現代を生きる私たちにとり必要な指針となる。聖書の言葉を観念論的に操るというのでなく、あなたの生き方は聖書のメッセージに則っているかと問いかける。それは、おそらく牧師から見てのアメリカ合衆国の姿なのだろう。表向きは信仰の国である。キリスト教の言葉が飛び交い、教会に通う人が多く、聖書の価値観が世の中をリードしているように見える。しかし、その現実として、黒人が差別されているし、そのときには聖書の言葉が見事に無視されているという現実がある。だのにまた、白人たちはそれを認めようとしないし、まるで罪から逃れられない者のように振る舞っているという。
 日本だったら、仏教者がこのように非難されるような厳しさがあるだろうか。また環境が違うから、単純に比較はできないが、宗教が社会規範に伴うべきだとい思想がなければ、このような非難は起こらない。白人だけのキリスト教であってはならないということだ。
 あれだけのすばらしい福音文化を世界に発信しているアメリカという国が、人種差別というところから逃れられないのも、人間というものを考えさせる題材でもある。これを嗤うことはできない。人間は誰しもそうなのだ。立派なキリスト者が神のように暮らしているわけではないし、美しい敬虔なクリスチャンなどという偶像に踊らされてもならないし、踊ってもならないのだ。
 では、この説教集は、社会問題のためのものなのか。私はそうだとしてしまってはならない、と考える。聖書の言葉を適切に受け止め、噛みしめ、そのように生きようという意志がなければ、どの説教も意味をなくしてしまうからである。聖書の理解については、ある程度当然というレベルで聞かなければ、理解できない内容なのである。だから、聖書とはこういうことが書いてある本ですよ、という紹介ではない。聖書に書いてあることを現実に実践しようではないか、というように、聖書はすでに信仰の前提とされている。さあ信じましょう、ではないのである。そのことさえ踏まえておけば、この説教は、むしろ聖書を深く理解するために役立つ。いや、読者自身に向かって、あなたはどうなのか、と突きつけてくる。実に、これこそが、神が聖書から問いかけている動きなのではないか。聖書を客観的に研究して、よいことが書いてあります、として済むものではないのだ。アダムに向かって、カインに向かって、神は問いかけた。そのように、聖書の中から、あなたはどのように生きているのか、と問いかけ、逃げ場のないほどまでに突きつけてくる。
 このような受け止め方がなければ、しょせん私は神の国から遠いのだ。
 キング牧師の説教が云々などと言う前に、私はどうなのか、そこを神自身から問われているのだという意味で、ひとつひとつの説教を味わってみるのもよい。いかんせん、古い本でこの本が皆様に入手できるものではないかと思うが、こうした視点で、図書館なり何か別の本なりで、キング牧師を通じての声を聞いてみることは、無駄ではないと信じている。




Takapan
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