『日々の暮らしの中で Lectio Divina 3』
レナト・フィリピーニ
教友社
\1000+
2020.4.
d
黙想と言えばよいだろうか。あるいは、本書の言葉で言うならば、「聖なる読書」である。ラテン語で「レクティオ・ディヴィナ」といい、それがシリーズのタイトルになっている。カトリックに相応しい営みだとも言えるだろう。その言葉の説明として、タイトルのところに、「聖なる読者によってみことばを祈る」とも書いてある。確かに、これは「祈り」なのである。
何を祈るか。自分の思いや願いもいいだろう。だが、ともすれば、自分の願いを神にきかせるような方向に、人の心は向かいがちである。神を自分の召使いにし始めても、なかなか気づかないようになってしまう。そこで、聖書から聞こう。神の言葉を聞こう。神の言葉に従って、祈ろう。そのために、聖書をもっともっと読もう。
日曜日だけは、ミサ(礼拝)で聖書を読むだろう。だが、それ以外の日はどうか。カトリックにおいても、その問題はやはりあるらしい。
そこで、なんらかのプログラムを設けて、日々聖書に親しむ機会を与えようとするひとつの試みが、この司祭の提言であり、提供である。
サブタイトルには「信仰を育て、実践する」と記されている。こうして、タイトルやサブタイトルばかり見ていても、まだ何がどうなのか、お伝えできないだろう。
本書は、幾つかの聖書箇所に加えて、マタイ伝の八福と主の祈りの一つひとつについての項目が並んでいる。その中から「心の貧しい人々」を具体例にとってみよう。
まず「祈りへの招き」ということで、カードを参照させる。カードというのは、巻末に厚紙表裏に印刷されている、この祈りのプログラムのことである。この祈りは、単独でもできるが、グループで行うことが推奨されている。小集団で共に祈るためのプログラムが設定されているのだ。
プログラムは続いて「聖霊の助けを求める祈り」へ続き、今日の箇所、つまりマタイ5:3の「みことばを朗読しましょう」へと移る。それから「みことばに耳を傾けましょう」ということで、司祭がここに短いコメントを付ける。ここでは、「心の貧しい」という表現を「物乞い」と訳した聖書について、原文に近い意味だと説明する。その他、この言葉を味わうための幾つかの指摘が施される。
さらに「みことばを味わいましょう」という題で考える。ここでは「自分も物乞いであることをどのように理解できますか」と問いかけるところから始まる。自分自身の問題として気づかせてくれるひとときとなるだろう。
最後に「みことばを生きましょう」という項目がある。「物に溢れている環境で暮らしているわたしたちは「貧しさの実感」がしにくくなっているのではないでしょうか」と問う。具体的な生活の中で出会うケースを挙げ、これから自分は実際にどのようにするとよいのか、について一つのヒントを授ける。そうして、イエスがほかの箇所で言った言葉を少し挙げ、私たちも「幸い」を体験しよう、というふうに結ぶ。
これら一つひとつのプログラムのたびに、カードに印刷されていることを、毎回辿るように設定されている。みことばを胸に懐くように導く、毎回お決まりの案内である。そして時間をも少しとることを告げて、結びの祈りや讃美歌へと案内する。グループで実行していれば、この後自由に分かち合う機会をもつように説かれている。
よくできたプログラムであると思う。そこはさすがカトリックだということかもしれない。通常の祈りもまた、祈りのテキストに沿うなどの信仰生活があるから、このようによく練られた形に従うことは、ある意味で当たり前のことのように感じられるかもしれない。その意味では、羨ましいとも思う。
みことばを生きる。そのことについて、ひとつ目に留った言葉を引用して結ぶことにする。「聖書は、信仰が教義よりもまず神との出会いという体験から生じることを教えてくれます。みことばとして、聖書は神との出会いを伝える信仰の記録です。」(p39)
なお、「レナト神父」で検索すると、ブログやFacebookが見つかる。そちらも覗いてみるとよいかもしれない。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド