本

『教会と国家V バルト・セレクション6』

ホンとの本

『教会と国家V バルト・セレクション6』
カール・バルト
天野有訳
新教出版社
\1800+
2018.3.

 第二次世界大戦が終わる時から十数年、東西ドイツの間の差異や関係が問題になっていく過程の中で、神学者カール・バルトが、思い切って政治的な発言を繰り返している様を記録した文献が集められている。いや、思い切って、というのは失礼にあたるだろう。バルトにしてみれば、神学者が政治について強く発言するのは当然すぎることなのであるし、むしろそれをしないような者が聖書を研究しているなどと言うべきではない、という前提があるものであろう。
 ドイツの中にヒトラーは現れた。ヒトラーひとりの力では、実のところ残虐なことは成し遂げられなかった。ドイツ国民が熱狂し、よく働く僕が多数いたのだ。いまでこそ北朝鮮の中に私たちは奇異な精神構造を見て批判もするが、ドイツもさてどうだったのか、また、日本などはもっとそれと似ていたのではないかとすら思えるわけで、このドイツの痛みというものを、それに徹底的に抗戦してきたバルトであっても、痛みを覚えないわけがない。そこで、ドイツとは何か。あの東ドイツはいったい何であるのか、問わざるを得なくなってくるものであろう。
 そして東西が分かれた。この中でドイツの名のもとに生きるわれわれはどう考えて生きていけばよいのだろう。とくに、キリスト教会はどうすべきなのだろう。この教会という表現は、ドイツの神学者が多く区別するのだが、いわゆる組織としての教会という成り立ちと、キリストにあって生きるメンバーが集い形成する共同体という意識の教会とが、別の事柄として論じられていくことになる。それが、公的な共同体とどう関わるのか、それを問題にする場面もある。確かに国や地方の公共団体も、信仰的にはキリスト教を含んでいるものなのかもしれない。がまた、そうとは限らない。教会とは別の原理がそこにあり、別の原理で動いている。そこにキリストの論理を使って公民的営みがなされていくわけではないのだ。ヨーロッパは確かに、古来この2つの考えの対立や関係が問題になってきた。旧くは、教皇と国王である。どちらが上かという観点で権力争いすらあり、また時代的状況によってそれが移り変わってきた。
 それが現代となると、教会は政治とどのように関わっていくべきであるのか、という問題としても受け止められる。バルトは、その都度の講演テーマや話す機会に応じてこうしたモチーフから語る。中には鉄のカーテンの話や、ドイツの再軍備も取り上げられる。そして最後に、東ドイツの牧師との交流を示す書簡を公開する形で、現実にそこに生きる人の息吹とそこへ働き掛けるキリスト者の考え方を世に問うこととなっている。
 どうであれ、政治に目をつむるようなことを決してしない、というのがバルトの生き方であり、また神学的態度である。それはまた、「新聞抜きには聖書は存在しない」という言葉が出て来るまでに徹底する。もちろんここには、バルメン宣言の解説のようなものも含まれ、キリスト者の生き方が現実世界の中ではっきりと位置づけられるものでなければならないことははっきりしている。私たちの生き方が問われていることも確かである。
 なお、このバルトセレクションのシリーズは、しばらく間を置いてようやくこの度本書が発刊された。発行が遅れた訳は、あとがきに書いてあった。訳者の大病の故であった。訳出だけでも容易ではないのに、丁寧な訳注と、広く深い洞察に基づく解説を施すなど力のこもった仕事をして私たちに知恵を届けてくれる、この地道な訳者の労苦に、読者として私たちが次は応える番であるのだろう。




Takapan
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