本

『ノルウェイの森』

ホンとの本

『ノルウェイの森』
村上春樹
講談社文庫
\467(上),\514(下)+
1991.4.(上)2004.9.(下)

 なんとも哀しい話である。ネタバレはし過ぎないようにするが、村上春樹の他の小説にも登場する直子と、ワタナベなる僕との関わりを描いている。男の身に寄せてしか私は読めないと思うので、ワタナベの、それなりに器用でいて自分を見出せず、振り回されながら流されていくような学生生活が、自分とは違うものでありながら、どこか共鳴する部分ももっているように思えてならなかった。何かしら優柔不断というよりは、自ら人生を選び択っていくタイプでもない。しかし、何かしら自分がその必要に呼ばれているような気がしているから、通りすぎる女たちを拒みもしない。そこへ関わる2人の女。直子と緑。
 もうずいぶん前のベストセラーを、ようやく今になって読む機会があったというから、私もおめでたい。今更何を言っているの、と言われそうだから、とやかく作品について偉そうなことを言うつもりはない。ただ、私はこのろくでもないような、しかし才能は何かしらあって、そして事を荒立てず立つところのない男の身になって、ずっと読んでいこうと決めていたわけであるが、蛍のシーンだけはドキドキして、涙が浮かんできた。このシーンは美しい。物語の展開上は何の意味も感じられない、蛍のはかない描写が、しつこく丁寧である。なんでも、他の作品をここに埋め込んだのだとも聞いたが、それくらい違和感のあるシーンであるにしても、美しく、物語を強烈に強調していたので、私は心が揺り動かされた。そして物語がどう展開していくのかを、はっきりと示してしまったのだと感じた。
 そうして最後に自分を何者でもない存在だというふうに見失ってしまうワタナベは、聖書的に言うならば、罪を犯したアダムが神に呼び掛けられる、「あなたはどこにいるのか」という問いに喘ぐことになる。村上春樹のことだから、この創世記の問いを踏まえてやっているのだろうとは想像するが、聖書に出会っていないとこの問いは読者も感じないのではないかと思われる。
 しかし、このときの自分から、倍近くの年齢を重ねた今のワタナベが回想するというのが、この小説の舞台である。これと重ねて理解を深めていくのがよいのだろうと思う。さらに、小説のタイトル「ノルウェイの森」が必ずそこに引っかかってくる。言うまでもなくザ・ビートルズの名曲の一つなのであるが、日本語のもたらすイメージとは凡そ似合わない下賤な歌詞の内容である。そして恐らくはわざと「森」という嘘の訳を以て曲の邦題に訳していると思われる。これは英語的にも「森」ではない。村上春樹は翻訳家でもあるから、これは本当は「森」の意味ではないという歌だと十分知り抜いて上で、小説のタイトルに使っている。となると、そこには、その嘘に彩られた世界と、そしてまたこの曲の歌詞のいけすかない内容とを、どちらも掛けたものを作品の中に漂わせていることに成功しているのではないかという憶測が成り立つ。私はその意見だ。この曲が流れる場面が少なくとも二度、重要な最初と最後にあると言えるので、意識的にこの曲の謎を作品を飾るに相応しいとして用いているはずである。その意味では、勢いで書いた最初期の作品とは異なり、周到に準備して仕掛けをした上で長編小説が出来上がっていると考えられる。
 中高生が読むような作品ではないが、事実上けっこう読まれているようだ。そのあたりの問題がなければ、若い人たちに触れてほしい内容はあるように思うが、難しい。そしてもう古びた時代感覚の中で、学生運動とか世間への無関心とか、浮き草のような生き様とか、そういうのがその後の若者にはどのように感じられるか、楽しみでもある。希望的には、古びてほしくはないがと願いつつ。




Takapan
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