本

『カルヴィン キリスト教綱要抄』

ホンとの本

『カルヴィン キリスト教綱要抄』
ヒュー・カー編
竹森満佐一訳
新教出版社
\450
1958.12.

 カルヴァンといまは称されることが多いが、かつてはここにあるように「カルヴィン」だった。英語読みだとそうなるのだろうか。フランス語で書かれた大部であり、キリスト教史からしても巨塔である。クリスチャンで知らない人はいないと言われるが、果たしてこれを読み通した人がいるだろうか。もちろん原典でなくても邦訳でもよいが、全三巻となる大きな本は、なかなか読めるものではないと思われる。私はあるときがんばってこれを読んだ。教会のを借りて、ノートを取りながら読んだ。ノートというのは、抄訳形式で、全文は無理なので、自分なりに要点を書くという意味で、おそらく量的には半分くらいを筆記したのではないかと思う。もう少し少ないかもしれないが。
 それの抄訳を古書店で見つけた。あまりに薄い。しかし、それでは読んでおくべき大事なところとはどういうところなのか、という関心から、手にとってみたというものである。
 訳者にも惹かれたので、信頼は寄せたが、どうやらこれは英語からの訳らしい。そのあたりの事情は訳者も記していた。抄訳なのでそれもよいか、と。英語の訳を、英語圏の学者が要約したというような形である。
 カルヴァンの『キリスト教綱要』は、実は読んでいて、嫌になるようなねちっこさがある。論敵に対して、執拗な攻撃を加え、徹底的に悪と罵るような口調さえ見られる。それも必要な営みであったのだろうと当時の論壇あるいは宗教改革時代の雰囲気というのも理解すると、現代的な感覚で批判するつもりは毛頭無いのだが、不愉快を覚える読者がいまなら多いだろうことも予想される。私などは、面白がってそういう人間的な感情があるところも好きなのだが、しかしいま私たちのキリスト教理解のためには、当時の論争というものはさして必要がないばかりか、却って何のことを言っているのか不明になるということも考えられる。いまの私たちにとっては、むしろそういうところはないほうが、役立てられるのだ。抄訳というのは、そういう意味で、すっきりしている。決して古びることのない、福音理解が並んでいるし、またどういう論拠を以てすれば堂々と構えていることができるのか、教えられる。
 その後500年とまではいかないが時間が過ぎ、聖書理解も研究も、神学傾向も変わってきた。少なくとも、発展したと言ったほうがよいかもしれない。次第に判明してきた事実を踏まえていくと、カルヴァンの理解で十分とは言えないことはもちろんである。だが、手にしているのは基本的に同じ聖書である。そして同じように、そこに人生を見、信仰の思いをもって読むことには変わりがない。私たちもまた、カルヴァンの思考の跡をたどって、害があろうはずがない。そしてそのとき、当時の限定的な瑣末な議論は略されていても構わないから、カルヴァンの息吹が感じられるような文章を味わいたいと思ったならば、本書のようなものがあると本当に助かる思いがするものである。
 60年の時を経て、さすがに本書自体は流通していない。しかし、新たな訳で、それこそ新しい研究成果を踏まえての抄訳は出版されている。部分的ではあっても、原典は原典である。訳書でよい。ルターにしてもそうだが、一度どこかで触れてみることは、プロテスタント教会のメンバーとしては、必要なことのように思えてならないのだが、いや、なによりも大切なのは聖書であって、聖書を読むのであれば、こうしたものは二の次であってもよいかもしれないけれども、出版社は、歴史的名著あるいは必読に入れてよいような著作については、出版を諦めないで戴きたいし、また、それをうまく宣伝して戴きたいと願うばかりである。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります