本

『加藤常昭説教全集12 マルコによる福音書3』

ホンとの本

『加藤常昭説教全集12 マルコによる福音書3』
加藤常昭
ヨルダン社
\3398+
1993.12.

 1989年10月に、12章の説教が始まっている。イエスがいよいよ憎まれ、十字架刑へと転がるように突き進む場面が始まってゆく。穏やかな教えも味わい深いが、十字架に向かう説教には、強い緊迫感が伴う。マルコ伝はこの三巻を以て、その説教の全容が収められることとなる。
 このマルコ伝の講解説教は、新共同訳聖書を用いての最初の説教シリーズとなっているという。1987年に新共同訳聖書は発行されたから、教会としての動きは早いほうであろう。4月から、礼拝のみならず、すべての集会で新共同訳聖書を用いることに切り換えたのだという。
 本書もまた、これまでの二つのマルコ伝の説教全集に倣うコメントで終わるかと思いきや、ここには重大な変化があるので、それをご紹介することにする。というのは、本書の中に、時系列順を崩す構成が一箇所あるからである。
 もちろん、殆どすべては、マルコ伝を最初から順に辿り、少しずつのペリコーペと、それに関わるとされる旧約聖書の箇所も挙げながら、説教として展開し、そのままに掲載されている。だが、この講解説教の最初は、1988年4月に、16章の1節から8節までを取り上げて語られているのだ。そして4月3日のこの説教こそが、新共同訳聖書を用いた最初の説教だったのである。
 そこは、マルコ伝の本編の最後の箇所である。
 この後に、亀甲の括弧付きで、「結び」というものが別便で載せられているが、聖書学者は近年に於いて、そこはマルコ伝に当初なかったものであるが、他の福音書が登場したことで、他の記事をマルコ伝に付け加えられたのだ、と判断したからである。これについてはよく知られているので詳述はしないが、要するに8節の幕切れは中途半端に見えるわけである。復活の記事ではあるが、尻切れとんぼのようになっている。いま私たちが見てもそうである。昔の人もそう感じたため、何らかの形で「結び」を補って体裁を調えたに違いない、というのである。
 本書では、この付加された「結び」という箇所についても、説教を行っている。神学者の説明がどうであれ、ここも新約聖書として載せられているからである。しかし、1節から8節にかけては、本書の終わりのほうで、二つの説教が収められている。同様に、ひとつの箇所を2回説教しているところは、他にもある。この第三巻だけでも、他に三つあり、一度では語りきれない内容があるというので、二度に分けたのである。だが、この16章については、そのような意味ではなく、二度語られている。
 1988年の春は、マルコ伝のオープニングとして、マルコ伝の末尾が取り上げられたのである。そして1989年の秋は、順を追って語ってきた中で、取り上げている。
 どうして末尾がオープニングなのか。これは直に加藤先生の語りを味わうべきであると思うが、その日がイースターだったというのも、もちろん理由である。しかしマルコ伝には、この最後の「恐ろしかったからである」という終わり方が、そこから前の「つづき」を暗示していることは確かであること、そして多くの聖書を考察する人々が共通して考えているように、マルコはどうやら、この「つづき」として、「ガリラヤで再び会える」という知らせを天使から聞いて、もう一度第1章から読み返せ、と指令していると理解されることを教えているというのである。
 また、そのイエスは復活して、確かに生きていること、それを踏まえての、イエスの旅であり、イエスの死であることを覚え、イエスの背中を見ながら従う、という経験を私たちが辿るべきであることを、知るべきである、とも思われる。
 そのため、そこだけは、説教として語られた順ではない。ただ聖書箇所の順番として、そこに埋め込まれたわけである。それはそれでよいのだと思う。だが読者としては、余裕があれば、この第三巻から購入し、この1988年のイースターの説教を受け、それから第一巻の最初に戻って読み進めるという、語られた順で読んでいくことがベストではないか、と私は思う。本の編集としては間違っていないが、より風を感じるためには、その順序がよいのではないか、と思うのである。
 しかし、ともあれこうして十字架と復活を語り、最後にマルコ伝本来のものではなさそうな「結び」で終わるというのは、後味としては悪くない。説教はこうして終わるのではないからだ。ここからの「つづき」がある。そして、むしろその「つづき」こそが、大切なのである。説教を受けた私たち一人ひとりが、この後の福音書を「書き記す」役割を果たすべきだからである。福音書は聖書としてはここに完結したとしても、その言葉を受けた各自が、福音書を証しして生きること、その生きる有様が、正に神の霊の刻む歴史を物語るのである。
 私たちキリスト者が、キリストの復活を生きることになる。命ある説教は、一人ひとりに命を注ぎ、私たちがここから生き生きと歩み始めるようにさせてくれる。説教集は、肉声を伴わない、ある意味で不完全なものであるが、読む私の側のペースで受け止めることができるため、実にありがたいものである。




Takapan
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