本

『カント先生の散歩』

ホンとの本

『カント先生の散歩』
池内紀
潮文庫
\550+
2016.7.

 私も無知で情報に疎いことを身に染みて感じているが、それにしても驚いた。こんな本が出ていたことを、全く知らなかった。購入したのは、2021年も末のことである。おまけに、文庫でなく単行本としてなら、2013年に発行されていたのだという。
 カントについてなら、そこそこは知っているつもりだったが、打ちのめされた。カントの生活については、何も知らなかったことを暴露されたからである。
 この著者、ドイツ文学者である。いわゆる哲学の先生ではない。だが、若い高校生のために、カントの『永遠平和のために』を訳してくれないかという編集者の依頼を受けてしまったことから、格闘が始まったという。そのために、カントの生きた町ケーニヒスベルクまで訪ねている。そうやって人物を知ってからの翻訳であるのだという。頭が下がる。
 だが、その時の資料が、何かのきっかけで連載の運びとなったということで、本書が誕生するに至ったのだという。
 こうした経緯であるせいでもあろうが、当地の地理や環境について丁寧に描かれている。これは従来の哲学書にはない。カントが生きた地、そこから見える景色、こうしたことと無関係に、思想が生まれるだろうか。そんな当たり前の問いを突きつけられたような気がする。その町の空気や、住む人の気質、そうしたものへの想像なしに、思想を理解したことになるとでもいうのだろうか。
 こうして、正に「カント先生の散歩」ということになっていくのだが、ありがちな、いかにもエピソードというものに収まらないものがここにある。生きた人間カントに密着取材をしたという感じがするのだ。教授職を得るまでにたいへんな時間をかけたカントだったが、その生活費はどうだったのか。身近に誰がいて、話し相手になっていたのか。その話し相手がいなくなってから、カントの思想がしぼむようなことになったということは、生きた人の人生というものを考えてみると当然のことであるが、いったいこれまでの哲学的解説の誰が、そんなことを気にしていただろうか。
 晩年のカントについては、かなり長い量を使って描いている。老いは、長生きした誰にでも訪れるが、そのときカントは実際どうだったのか。最近そのことが話題によく上る。特に私は中島義道氏の『晩年のカント』がそれをよく描いてくれていると喜んで読んでいたが、本書はその比ではなかった。しかもこちらがずいぶん以前であるから、中島氏が本書を知らないということは殆ど考えられない。記述する観点は異なるが、池内氏の、人間への関心という意味では、頭が下がるという程度の表現では済まないものを覚える。
 三批判書を説明するのではないから、それはそこそこである。これは高校生に読んでほしいという『永遠平和のために』のガイドのような役割ももっているようだから、難解な哲学論を教え説くための場ではない。しかし、平和ということがどうしてカントの手によるものとして現われたのか、その辺りは、当時の政治状況なども十分伝えなければ説明したことにはならない。本書はその点でも、ブレずに求め、伝えていると思う。
 カントの大学での講義についても、カントの当初の策をも含め、移り変わりと生活との様子をよく描き、そして晩年の待遇から最後に看取られるまでの、いまでいう痴呆の症状を示す数年間についても、包み隠さず描いている。だがそれは、軽蔑するような口調ではない。人間への尊厳をこめた、だが人間のありのままを描くということで、淡々と、実写したものをレポートするかのように、私たちに知らせるのである。
 一つひとつの史料的根拠を記すようなこともなく、参考文献すら挙げない。だから、歴史的事実や思想的解釈については、学問的な意味でここに記しているのではないということは弁えるべきである。だから、肝腎の永遠平和論にしても、その動機や意義については、一つの解釈であるとしておこう。だがそれでも、辻褄の合わないような書き方はされていないと思う。つまり、筆者が十分理解してつながったと言える一貫した筋道の中で、本書のカント紹介は貫かれている。人間とは何なのか、カントは哲学的問いの最大のところに掲げたが、その人間への問いを以て、本書はカントという人間に迫った労力の賜物であると言ってよいだろう。
 因みに、中島氏の場合は、フィヒテとの間のこじれた関係とその背景について、本書と比べて詳しく書かれていたが、それは中島氏が大学という場をフィールドとしてきたことと、無関係ではないように思われる。人は、自分の領域というものから見える景色について、誰かに詳しく語ることができればそれでよいのだろう。当たり前のことなのかもしれないが。




Takapan
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