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『カントの批判哲学』

ホンとの本

『カントの批判哲学』
ジル・ドゥルーズ
國分功一郎訳
ちくま学芸文庫
\880+
2008.1.

 ドゥルーズとくれば、どうしてもポスト構造主義という言葉が重なってくるかもしれない。しかし、さて本人がそう呼ばれることを歓迎するかというと、恐らくそうではあるまい。そのまだ若い時代に、彼は幾人もの哲学者の本を読み深め、大学での講義として形にしている。本書も、カントについての講義から生まれたと想像される。つまり、ドゥルーズ自身のカント研究の成果というものとして見てよいものであろう。
 タイトルにあるように、カントの批判哲学、すなわち『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』を取り上げ、それをつなぐものを自分なりに理解して提示している。それがドゥルーズ自身の哲学であるというふうにも言えるが、しかしどこまでもカントの著作に従って説明を展開していく。だからこれはドゥルーズ哲学ではなく、やはりカントの哲学である。ただ、それがカントの意図を汲んで解説しているかどうかは、また別の問題である。
 ここでそのカントの哲学を説明することはできない。まさにそれは、本書を開いて戴ければよいと思っている。実はかなり薄い本である。しかも、230頁余りある中で、150頁あたりからは、注釈と、訳者の見事な解説である。本編そのものを読むのに、カントを知っている人は、さほど時間がかかることはない。もちろん、カントを知らないでここに入ると、そうではない。さらに、カントの冗長ではないきびきびとした書き方であるとはいえ、逆に聞き手がカントをある程度知っているものとして筆が進んでいるように見受けられることもしばしばあるため、これを以てカントを知ろうという計画には賛同できない。
 解説にあるように、理性などの働きというよりも、そこに能力を強く見出している。そのため、理性・悟性・構想力の中の、構想力に魅力を感じているように受け止めたが、間違っていたら申し訳ない。つまり判断力批判、それは経験的認識において判断をするというのではなく、美的判断力、すなわち対象からではなく対象へともたらす普遍的な判断の力の方へ、関心をシフトしているように見えたということである。
 そのために、ドゥルーズは共通感覚というテーマを提示する。理性などの能力は、各自ばらばらに好き勝手に働いているのではなく、共同して働くのであるというところを重視するのである。
 会社組織が、社員それぞれ好きに動いているならば会社は成り立たない。だから統制的に、トップダウンで指示がきてそれに則り仕事を進める。しかし、常にそれだけであったらどうだろう。事態に対応するために新しい視点やアイディアが求められる場面はたくさんあるだろう。それは、何でもアイディアを出せばよいというものでもない。しかし、従来のトップダウンになかった故にやってはならない、という理由もない。その辺りのバランスが確かに難しいのであっても、新しい発想を軸に、実践していくということはあってもよい。そのための判断は、確かだろうか。否、分からない。でも分かりたいではないか。だから、こうすれば成功するなどといつたビジネス啓蒙本が、世の中には実に無駄に並んでいることになる。
 カントは、理念という形で、理性のもたらす概念を、経験するには無理があるとしながらも、それを求めて人は生きていく希望の目標のようにして掲げた。そのためには、感性界とは別の世界を想定もしたし、経験における現象の背後に、知り得ないものとしての物自体を想定した。ドゥルーズは、理性がその物自体を実は目指しているという捉え方をする。そこに実践理性が、むしろ理論理性よりも優先すべきであるという人間の歩みが見出されていくわけだが、ドゥルーズはこのときにも、構想力が、実践理性がもたらす道徳の意識を陰で支えているという配置をする。カントにとり、理性と悟性とで済ませられなかった関係に配備した構想力は、実のところカント哲学の主役であるとは言い難かったのだが、もっと光を当てるべきものであったということなのだろうか。
 だから『判断力批判』は、理性批判の哲学のおまけではないし、補講でもない。共通感覚という概念をひとつのヒントにして、カントの批判哲学を、ダイナミックなものとして描き直すような営みであるように見える。
 しかしそこに再び甦ってくるかのように、デカルトの「我思う」がまた根柢に構えてくる。カントではそれを統覚という呼び方で示しているが、これが曲者である。どうにも得体の知れないもので、カント自身、これを追究しているとは言えない。恰も、当然それはあるじゃないか、というようにして、背後に潜むのである。いったいこれは何だろうか。ドゥルーズならずとも、これと闘う必要が、後世の哲学者にはあった。そして、実のところ十分カントと対決して勝ったような者はいないように見える。
 カントの哲学は、この批判哲学で終わらない。むしろこれは哲学の基礎付けに過ぎないのであって、カントは自然哲学や法哲学、歴史哲学に壮大な視野をもち、例によってねちねちと書き連ねている。宗教問題では出版的にも一悶着あるなど、歯に衣着せぬ言い方が当局の機嫌を損ねることもあった。ドゥルーズはカントと対峙するなどのやる気満々であったが、やはりこれだけの分量では、カント哲学全体への視点は与えられていない。その意味では、カントはやはり大きかったということが言えるようにも思う。よくぞこれだけ知に長けた構築物を造ることができたものだと驚くばかりである。
 ドゥルーズの構想が唯一ではないにしても、カントについての知識を深めるためにも、味わってためになることは請け合いである。しかし私は、ドゥルーズ自身については知るところが余りに少ないために、その魅力を十分にご紹介する能力がないことは、ひたすらお詫びしなければならないと思っている。




Takapan
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