『カントとゲエテ』
ゲオルク・ジムメル
谷川徹三訳
岩波文庫
\400+
1928.12.
もちろんこの価格は復刊である。2001年発行の第21刷を入手した。しかし古い。谷川徹三さんももう古典の部類なのだ。大村書店発行のときには1922年であったそうだが、それを「改修」した、と「例言」に記されている。。
文化を含めた社会学に深い思索を遺すジムメル(ジンメル)であるが、カントはもちろん、ゲーテにも強い関心を示す。なにしろドイツにおいては、ゲーテは芸術家としてもであるが、思想家としても尊敬される存在である。無言で通過するわけにはゆかない。
なお、百年前の版をそのまま再現しているため、旧字体が用いられ、どうかすると活字の一部が欠けているときもあるが、私は旧字体には慣れているため問題なく読める。但しこの場では、原文をたとえ引用するにしても、新字体に変更していることをお断りする。そのため、以下は現在通用する「ゲーテ」と表することにする。
本書には、「近代世界観の歴史への一寄与として」という文句が置かれている。
本としては薄いので、直にお手にとることをお薦めする。内容を辿り敷衍するよりも、比較的自由に、近代の哲学と芸術について連想するところを述べてみたい。
ジンメル自身も、この二人を尊敬していると思われるし、批判の対象として叩くようなことはしていないと思う。ただ、それは「近代的世界観」の代表、あるいは象徴する巨人として見ていたわけで、近代哲学を捉えるためにはどうしても立ち向かわなければならない人物であったと思われる。
二人の世界観は、対照的なところもあるが、近代思想という枠内で共通するところもあるだろう。このように、相違と共通点を捉えることによって、表層的な理解を脱し、さらに近代を超克する契機が与えられる、とも考えられる。
二人にしても、主観と客観という対立構造の中にあった、という点が、その契機となり得るであろう。カントは理論理性を科学的な言明の成功例の基盤となし、それは自然に対して一定の制限の中で働くものとするからこそ、現象を扱うことに成功している、と見た。もちろんカントも、その延長の中で、自然への「美」ということの判断について大著を世に出すに至り、哲学としての大系を築いた。そして、その科学的認識の正当化の眼差しの向こうには、ニュートン科学があった。
ゲーテは、どうしても文学者としての名高さで私たちは見てしまうが、当時は科学者でもあった。というより、カントにしてもゲーテにしても、その時代には、科学者と哲学者が別物だという捉え方はしていなかったように思われる。カントもまた科学理論を多数世に問うているし、宇宙生成理論にしては、今もなお一目置かれる発言をしている。たとえ今では通用しないとはいえ、地震論は、地震というものに初めて科学的なアプローチをしたということで、意義があるものと見られている。ゲーテもまた、特にその「色彩論」はいまも読むことができる本である。但し、それはニュートンの光学論とは対立するものであった。結果的にニュートンの色彩論の方に軍配が上がったのだが、ゲーテは、自然を機械論的に処理しきってしまうことに、我慢がならなかったのではないかと思われる。
もしかすると、ゲーテの見方から、いまの私たちも何か学ぶところがあるのかもしれない。単純にゲーテの言うままに、というわけではないと思うが、私たちの時代の科学批判の必要性と、時代の危機という点から見ても、反省すべきものがあるはずだし、同様に当初から批判の眼差しを忘れなかったゲーテの考え方は、考察に値するものではないか、と提言してみてもよいような気がする。
その意味では、カントにしても、科学万能で科学が理念を引っ張る、というような考え方は決してしなかった。あまりにも人間理性に信頼を置きすぎた観はあるが、科学は制限内でしか通用しないとブレーキをかけていたには違いない。限界を置く、ということについて、いまなお私たちは、カントに学ぶことがあるように思えてならない。そこからカントは、善を求める人間の精神を最も尊敬するべきものと見ていたのである。ゲーテはしかし、世界を統一することを模索し、憧れていた観があり、分裂して多様性の中で収拾がつかなくなった現代思想と現代世界に、何かひとを一つにまとめるものを求めるときの道標を提供してくれるかもしれないと期待できる。尤も、社会学者ジンメルからすれば、安易に一つにしようとした恐るべきその後の歴史は、もう二度と起こしてはならない出来事だと叫ぶのであるのではないか、と考えたい。
考えるきっかけを与えてくれる本というのは、有り難い。もしその本を適切に理解できていなかったにしても、ひとを思索に招くとすれば、きっと人類に貢献するものとなろう。本書もまだまだ貢献できるものであると私は強く思う。

た
か
ぱ
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イ
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