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『思想2018年11月no.1135 カントという衝撃』

ホンとの本

『思想2018年11月no.1135 カントという衝撃』
岩波書店
\2300+
2018.11.

 ずいぶん久しぶりだ。『思想』を買ってしまった。カントから離れ、教会生活をしていた身にとり、玉手箱のような内容。おやおや、いまカントはこんなふうになっているんだ、という体験をしたくて、最近の動向を覗こうとしたのだ。
 いやあ、ついていけない。しかし岩波の好みか傾向かで集めているのかとは思うが、概ねいまのカント研究の風景を見るにはこれでよかったのではないかと思うことにしている。印象としては、ア・プリオリな総合判断というキーが目立ち、その問いかけは必ずしも役割を終えたのではないのではないか、という感想をもった。そして、より広く学的状況に適用可能なカントの魅力を再発見することができるような気がした。
 確かに近代の中でも過去の哲学者の部類に入ってしまうだろう。しかしその泉は、いつでもいまの状況に適用可能だ。なにせ思考する理性そのものを問題としている。対象をあれこれと探るのではなくて、そもそも対象を自らの判断に持ちこむということはどういうことか、この自分の判断はどのようにして確証されるのか、そのメタ視点は、哲学を営む以上は消えることのない課題であるのだろう。
 だからこの特集タイトルの「衝撃」が、なかなかいい。誰が付けたのか知らないが、カントはいまなお衝撃であり続けるし、それは特にドイツ系かもしれないが、神学について考えるときに、どこか気にしながら進まなければならないポイントであるのだ。
 個人的には、「認識」の語を女性名詞と中性名詞とカントが使い分けているという指摘が面白かった。意図的にそうしたのであろうとは思うが、日本人の書く文章の場合に使わないレトリックである。名詞に性のある言語においては、それが男性か女性かあるいは中性かということは、生物学的なそれとは異なると言われるが、無関係でもなく、そこに染みついた文化が根強く影響するものと思われる。その心理的な扱いあるいは文化的な扱いは、なかなか解明できないものかもしれない。しかしさし当たり記号的にであるにしても、使い分けているとなると、著者のメッセージの表し方としては興味深い。日本語だったら、どのようにそのコードを隠すだろうか。漢字とひらがな、あるいはカタカナという形がすぐに思い浮かぶ。それもあるだろうと思う。そうなると、案外私たちは自然にそのように使い分け、メッセージを送っているということになるだろう。微妙な相違を、なんの区別もなく垂れ流しにしがちな私たちであるが、たとえば「 」により示すというのはよくあることである。私たちは、自分が使う語の概念に無頓着であってはならない。それは読者を混乱させてしまうことになる。読み解けよ、というのではなく、できるだけ分かりやすく示すというのが、特にいまの情報過多の時代には必要なエチケットであるのかもしれない。
 私としては、この哲学のフィールドに入ることはもうできない。しかし、神学でも何でも、思考枠に限界を覚えたら、あるいは判断する自己自身に言及する必要が多々ある現状を考えるならば、カントの思考はきっとヒントになるだろうし、しょせん私はそこから離れられないのだろうという予感がする。ひとつの道具というと失礼だが、この理性批判の方法は、人間としてとまでは言わないが、私にとり、離れられない道ではないかというように思うのだ。




Takapan
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