本

『科学と宗教と死』

ホンとの本

『科学と宗教と死』
加賀乙彦
集英社新書0624C
\735
2012.1.

 1987年というから、決してつい最近のことではないのだが、著者にしてみれば60になる手前、年を経てからのことになる。ついに、カトリックの洗礼を受けた。
 それまでも、キリスト教の導きが確かにあったわけだし、なかなか勉強熱心でもあり、知識も豊富だった。だが、心のすべてで受け容れたのがその時であった。それは、神父につきっきりになってもらい、数日間質問を重ねたという、ユニークな体験によってであった。
 法学の教授から、加賀乙彦の『宣告』をお勧めします、と言われ、早速読んだ。当時決して安くない単行本だったが、買った。それだけの価値があるように思われたからだ。これは大学生としての私の考え方に多く影響した。
 しかし、そのとき著者は、正確に言えばクリスチャンではなかった。『宣告』でモデルにした死刑囚が獄中で回心したこともあって、著者自身も聖書に吸い寄せられていくわけだが、当初は文化や芸術としてキリスト教を見ていたに過ぎなかった。また、思想としても敬意を表し理解したのであったが、自分を委ねる形での信仰というものではなかった。これは、キリスト教思想や文化に好意をもつ文化人のひとつの特徴でもあるだろう。それが、聖書の神にどっぷりと身を任せるに至ることについては、この新書でも詳しく書かれているし、他の書きものにおいても随所で触れる内容である。
 その人生論とでも言うべき内容を、どこか遺書のように、順序立てて記したのがこの本である。戦時教育とその当時の死生観、戦後の自分の学びと歩み、それは死刑囚の心理を扱うというものであったが、人間の心理の深いこと、心理学では究めることのできない人の心や死の問題が次々と明らかにされていく。そうして聖書への信仰を自覚していく。  最愛の妻が2008年に突然亡くなる。自分よりまさか先に、という思いに包まれるが、その著者自身、2011年初めに、新年会の最中に倒れる。10秒ほど心臓が止まり、それ以上続くと命がなかったという体験をする。こうして、長くは生きられないと教えこまれた少年時から、死刑囚の心理を研究した戦後、そしてキリストを受け容れて、また妻を見送ったことと自分の臨死体験が重なって、死と隣り合わせで生きてきた自分と、その死との関係を問い直すことになる。
 そこへ、間もなく東日本大震災が起こる。このときにも、自宅にいたら散乱した5000冊の本のために命がなかったのではないかという経験をする。阪神淡路大震災のときには、いてもたってもいられないで精神科医としてボランティアに馳せ参じた著者であったが、もはやそれもままならぬ。かつて原爆を目の当たりにした経験からも、放射能の問題の深刻さも強く覚えていく。
 そうして最後には、宗教という思想について長く語る。そこには、キリスト教の教義を宣伝する意図は全くない。むしろ、若くして親しんだ仏教や儒教の思想をふんだんに取り入れ、むしろそうした宗教思想には共通の考え方があり、それぞれ尊いものだという視点から、死という、他人事でない対象について思索を深めていく。科学という一定の制約の中での約束事とは違い、捉えきれない無限なるものとして、私たちを背後から支える神仏を理解していく姿勢は、人の心を科学で調べようとし尽くした著者の人生に裏打ちされた確信として語られる。
 そのとき、聖書だけを根拠に死を語るという手法もあるのだろうが、それをしないのは、そのほうが日本人に伝わりやすいと考えられたからかもしれない。専ら聖書から語れば、聖書に無関心な人は、最初からバリアを張って、はあそうですか、と済ましてしまうかもしれない。しかし論語なり法華経・親鸞なりを用いて共通項を探るとなると、逆に聖書に関心をもって戴く道をも拓くことになるかもしれない。こういう語り方もあるものだ。
 大震災の被災者の見た死は、戦争の死とつながるものがある、と著者は言う。そして死を忌避し、死を遠ざけてきた世の中のあり方に問題を提起しているようでもある。そこには、金銭と幸福とを一致させて見ることしかできない見方もあると説く。だから宗教というものは大切なのだ、というのがその心にある大きな思いである。ただ、特定の宗教を押しつけるようなものとして示したくはないのだという。
 優れた知的感覚を伴う作家の、絶唱とも呼べるような、自分の人生観。決して分厚い本ではないが、十分な重みがある。社会論としても、傾聴に値するだろう。心して相対したい文章となっている。




Takapan
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