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『小林和夫著作集 第10巻 神学論文集』

ホンとの本

『小林和夫著作集 第10巻 神学論文集』
小林和夫
いのちのことば社
\3800+
2013.6.

 ホーリネスの神学の指導者でもあり、説教者として長年日本の福音宣教のために貢献してきた方には美しい著作集も作られていた。ソフトカバーの単行本はいくつか手元にあるが、ハードカバーのものもまたある。だが著作集の名でまとめられているとなると、存命中の人物としては見事な業績と言わざるをえない。
 今回入手したこの第10巻は、神学論文集である。説教集ばかりを見ていた私にとり、これは著者の別の面を知るものとして刺激になった。カール・バルトやブルトマンという、いわば話題の神学者を取り出すが、それらはいずれも渡辺善太との比較あるいは渡辺による理解という点で語られていく。ついには渡辺の思想がまとめられていくという構成になっている。著者が、渡辺にいわば師事し、指導してもらった経験からの結実ということであろう。その後には、聖書神学にいてとくに新約聖書の福音書を大きく捉える形で示し、聖化論という、ホーリネスの醍醐味を存分に論じていくことになる。モーセ五書にいて触れたものがあるが、トリはウェスレーである。これもホーリネスとしては当然の取り上げ方であるとも言えるし、著者の信念に従った展開がなされて巻が閉じられる。
 論文という名がついている。私は、神学論文というものがどういうものか、知るところは少ない。比較もしようがないし、まして評価ということなとできるわけがない。ただ私にとって、という視界からこの小さい器で受け止められるところから眺めてみたいとだけ思う。
 果たして論文であるのか。聖書の文献批判をしているのではないその解釈と神学の大枠な理解が構えられている。それは、証拠に基づいた論というよりは、著者の信仰告白がなされているかのように感じる。一つひとつの論拠は薄く、必ずしも明確な証拠を伴った議論が展開されているわけではないように見える。論述の中には、人名が次々と現れ、誰それの何々にあるように、と目まぐるしく人的な権威か利用されていくのであるが、もちろん私もそれらをすべて知るわけではないにしろ、哲学者が出されてくるといくらか知る部分があり、いかにも軽く表面だけの知識が持ち込まれているという印象が拭えなかった。つまり、フッサールのエポケーが、とだけ言及されて話が進んでいくにしても、それだけでその議論が現象学に根拠づけられるわけでもないし、現象学を利用することに成功しているとは言えないであろう。多くの人名が出されてくると、恰も権威をすべて身に受けてここで語られていることが人類の大いなる思想すべてに支えられているかのような錯覚すら与えかないのであが、どうやら実情はそうではないように思える。早い話、そうした人名を一切出さずに、論を進めて然るべきものではなかったかと思うのだ。
 また、トランスツェンデンタールという語を、「超越的」な意味で用いているのも気になった。その意味で使うのならトランスツェンデントを使うのが一応常識である。私は読んでいて、トランスツェンデンタールとあるため、神と人との間をつなぐイエス・キリストのことを言っているのか、と期待したが、どうも神は人が決して及ばぬ超越的な存在である、ということを言いたいために使っていて、がっかりしてしまったという具合である。
 そして注釈や参考文献にあるそれら哲学者や神学者の著作は、多くが邦訳であり、まるで大学生の卒業論文のような程度の文献一覧となっている場合があり、論文としては力が感じられない。入門書に解説されている程度の有名な語についてまで、わざわざ出典が付けられるほとの価値はないと思われることもあった。
 これが論文でなかったら差し支えないのであると思うのだが、論文としては、素人めいた引用や論述のように思われてならないのだ。多彩な他人の思想を持ち出すことなく、著者自身の中で練られた論理を見たかった。有名な学者の名を並べずに、ご自身の信仰や捉え方に根拠を以て堂々と論じて戴きたかった。つまり、この信仰には確かに理由がある、ということを表に出して戴きたかった。たくさん論じているようで、肝腎の信仰の正当性を出すところは、さも当然というように流れていくような印象を与えたのが惜しいのである。
 たいそう難しい言葉が選ばれて綴られていくけれども、様々なアンチテーゼを盛り込んでそれに対する布石を置くような手間をかけずして、聖書信仰を当然のこととして展開していくとき、実のところ論としては弱いものになってしまう。自分の弱点を出さないで論を急ぐ場合、そうなってしまうのである。
 だから、私はこれを学的な論として読むのではなく、信仰の書として扱いたいと考えた。それならたいへん有用である。ホーリネスの信仰や聖書の読み方がふんだんに繰り広げられていく中で、大いに学ぶところがある。多くの思想との関連も読み取れるし、参考になるところは多い。何より、著者の信仰の力強さ、福音の力というものには定評があるし、その説教を私はラジオでたくさん聞いている。講談調の語りのもつ力は、決して勢いだけではない。信仰の真実を発揮する説教に、どれほど多くの人が救われたか知れない。この私も、ここで詳しくは語らないが、裁かれ悪魔呼ばわりされた末、聖書だけが頼りという場面で神にすがって、なんとか拠り所となるものを与えられたにせよ、まだ混乱の中にあった私が、確信を与えられたのは、小林先生の聖会でのローマ書からの説教であったのだ。
 だから私の、命の恩人なのである。




Takapan
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