本

『ガリラヤに生きたイエス』

ホンとの本

『ガリラヤに生きたイエス』
山口雅弘
ヨベル新書076
\1500+
2022.3.

 書店で本を手に取ったとき、「まえがき」か「あとがき」を覗くのは、本選びの常識である。私は「あとがき」を重視する。「まえがき」が、本書の内容の序説となるのに対して、「あとがき」は、本書の出自や背景を語ることが多いからである。そこで本書のユニークさが分かった。どうにも自分の情熱を抑えられず、執筆した。キリスト教の牧師を各地で営むことを含め、学者タイプでもあるような、キリスト教の専門家である。しかし、その心の中に沸々と燃え上がるのは、キリスト教世界への批判と挑戦であった。こんなものを、キリスト教書店関係が出版してくれるはずがない。諦めるような気持ちをもっていたところ、青野太潮氏の、同様なスピリットに基づく本の出版を知った。この書店ならば、もしかすると請け合ってくれるかもしれない。話を持ちかけたら、出版が実現した、というのである。
 新書という形態でもあり、またその情熱が激しいために、主張を繰り返すことが多く、読者に、これでもか、と示すことを怠らない。そのため、著者の言いたいことは、十分伝わってくる。読み誤ることは、恐らくあるまい。
 キリスト教というものが成立したのは、イエス・キリストの死の後である。イエスがどのように生きたか、そのガリラヤでの生き方に注目すべきである、とする。それが本書のタイトルとなっている。サブタイトルには「いのちの尊厳と人権の回復」という言葉が、タイトルに負けないくらい大きな文字で示されており、要するに、イエスはこれを求めた、というのである。
 ところが、キリスト教というものが成立した後、キリスト教は組織となり、教義が立てられ、イエスの精神の中核にあったものとは別の宗教が成立していってしまった。それが、世の中でキリスト教にあらずば人にあらず、とでもいった形で、横暴な専制君主のような振る舞いをするようになり、世界の混乱や破壊を行うようになってしまった。歴史がそれを証明している。「いのちの尊厳と人権の回復」に焦点を当て、私たちはいま、キリスト教だとか何教だとかいうことで壁をつくらず、イエスの目指していたものを大切にし、そのために生きて、この世界を変えていかなければならないのではないか。
 私の言葉で編集しているので、著者からはお叱りを受けるかもしれないが、こうした方向で考えているのだと受け止めた。というのも、私も、こうした考え方には、大いに賛同するからである。自分は正しい、という前提を必ずもっているような思考法は、完全に破綻する。というより、キリスト教がそれをするのは、自殺行為だと思う。自分は正しくない、というあり方の故に、神の正しさのもとにひれ伏すというのであるのはよいのだが、正しい神を信じている自分は必ず正しい、という捉え方は、間違っていると確信しているからである。
 特に、最後の章に近づくにつれ、著者の思いは炸裂する。熱意が届く。だからといって、具体的に何かをする、ということを示しているとは思えないが、その何かに促すような声の力はあるかと思う。私もまた、何かを実践しているわけでもないので、その痛みを懐きつつ、著者のオピニオンそのものには、同意を示したい。
 ただ、私と捉え方が違うところはある。本書で、福音書など、聖書についての理解を、いやに断定しているところである。断定ということは、他の意見を誤りだと決めつけた言い方が繰り返される、ということである。確かに、新書という性格上、その理論を証拠立てるものを挙げたり、議論したりする暇はない。だから、証拠不全のままに、自分が研究したことを挙げるということが、殊更に理不尽というものではないだろう。だが、聖書理解としては、リベラルという段階をさらに超えるかのように、様々な奇蹟と呼ばれるものを一刀両断に否定し、信条の根幹を破壊し尽くすような言い方を繰り返すのは、どうであろう。
 こうした考えをもつ人は、時折見かける。そしてそのほうが、さも進歩的で、現代的であるかのように見える場合があることも、知っている。それも、聖書を根拠に述べるものだから、聞く方も、そうかもしれない、という気がしてくる場合がある。だが、よく聞いていると、聖書の中で、自分の考えを正当化したいときには、「聖書にこのように書いてある」とか「聖書のこの箇所は疑いようがない」とかいうように触れるのに対して、自分が否定したい記事については、「聖書のこれは嘘である」「聖書のこれは正しくない」と切り分けてしまう。この2つの違いがどこにあるのか、というと、その根拠は、それを言う人の心の中にしかないようにしか、傍から見れば思えない気がするのが、殆どなのである。
 その人が、聖書をどのように解釈しようが、それについて私はとやかくは言わない。その人がどのような信じ方をしようが、それを否定するつもりはない。だが、その人が、自分はこう信じる、ということを根拠として、だから聖書はこうである、と聖書を決定づけるような言い方をしてよいというふうには思わない。聖書を、その人が信じないような仕方が信じる人を、間違いを信じている愚かな人だ、とでもいうような決めつけが、懸命なやり方だとは思わないのである。そうした決めつけは、著者が一番憎んでいる、過去のキリスト教組織が、特定の教義を信仰することを強制したことと、本質において変わらないのではないか。
 つまり、自分はこのように信じている、という言明であればよかったのである。それを、聖書のこれは間違いだが、聖書のこれは正しいから自分の言うことは正しい、というようなスタンスで終始語るとなると、聖書を、著者が判定しているだけのものとなってしまう。もちろん、近代聖書学というものは、聖書のどれが史実であるかなどを、様々な文献や史料、また考古学などを取り入れながら、探究してきた。だからと言って、近代人の常識による推測のために、古代人は誤っていた、と決定する権限は、どこにもないだろう。
 まして、聖書がどうあろうと、自分は神とこのように出会った、という人がいたときに、それは違う、と指摘するだけの権限が、聖書を研究する人に、果たしてあるのだろうか、は疑問である。このように出会った体験をもつ人は、伝統的な教義の文字面を信じているのではない。教義は、最大公約数的な、表面的なものとして受け止めているかもしれない。だから伝統教義を唱えるからと言って、その人が、教会組織が作り上げた教義に操られている、とは限らないのである。しかし、著者はその辺りを、決めつけているようにも見える。それほど、一人ひとりのキリスト者は、教義に縛られ、教義の奴隷になっているわけではないのである。一定の教義は、偽物を区別するときの試験薬として、ある程度機能する場合がある。それでも個々人の神との関係は、個々人が神と結んでいる契約の問題なのであって、その人なりの聖書の読み方や受け止め方というものがあることを、否定する理由はない。だから私は、著者の信仰を否定するつもりはないし、著者個人の聖書観に口を挟むつもりはない。ただ同様に、著者による聖書の見え方とは違う聖書の見え方をする人の信仰を、否定するような言い方は、行き過ぎだと思うのである。
 イエス・キリストの、どこに重きを置くか。それを、人間ひとりの思いで、画一的に決定することは、できないであろう。ただ、著者が主張するような世界観について、私はむしろ心を寄せたいとは思っている。だから、聖書そのものについて、もう少しゆとりのある読み方をした中で、同じ結論をもたらしてくれたら、もっと本書をお薦めできるだろう、と私は感じたというわけである。




Takapan
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