本

『ジュリーの世界』

ホンとの本

『ジュリーの世界』
増山実
ポプラ文庫
\780+
2023.9.

 その頃の京都に住んでいたら、「河原町のジュリー」が分からないという人はいないかもしれない。この物語の中心となる時期からすると、少し後になるのだが、私も京都にいた。見かけたこともある。そして、亡くなったときのニュースにショックを受けたことも、確かにあった。
 河原町のジュリーは、伝説になった。だが誰も、その人間としての過去については知らない。噂が勝手に飛び交ってもいたし、どこか確かな情報だ、というものも聞こえてきた。そのときの新聞記事や関係者の声を取材して、まるでルポライターのように、ここにひとつの物語ができあがった。あまりにも時代が流れた。物語の中でも、40年の経過がある。実際、40年の時を経て、この物語は上梓された。文庫になる前の刊行は、1981年であった。河原町のジュリーが1984年2月5日に亡くなってから、まだ40年は経ってはいなかったが、物語の中では、その命日を以て河原町のジュリーのことを計ってはいない。
 プロローグはまた現代の風景ではあるが、本編の舞台は、1979年の春からである。そして、三条京極交番という、架空の交番だと思うが、そこに新任の木戸巡査が来て間もなく、河原町のジュリーに被害を受けたという女性が飛び込んできたところから始まる。
 何も知らない木戸は、訳知りの先輩、山崎巡査長から、河原町のジュリーについていろいろ教えてもらう。こうして、読者も共に、河原町のジュリーについて知ってゆく体験を重ねることとなる。
 途中で、鳥の図鑑を駸々堂から万引きした、池島と名のる小学生の少年が物語に関わってくる。木戸はその少年に、何かを感じる。この少年は後に、ある鳥を逃がすために鳥の店に侵入するが、その現場を河原町のジュリーに見られることで、ジュリーと関わりをもつようになる。こうして、キャラクターが出そろって、物語は進む。  河原町のジュリーその人の心の内面は描かれない。それはやはり分からないことなのだ。ただ、その行動を外部から観察する幾人かの人の目を通して、人物像が描かれてゆく。
 もちろんこれはフィクションである。どこまで本物の人物に迫っているかは分からない。ただ、著者は、京都新聞を片端から調べ、当時の京都の様子や、河原町のジュリーの死亡記事などから、想像の翼を広げ、一筋の物語に仕立てた。この人の過去についても全くの想像で一場面を築き、それは遺族からもたらされた過去の日記に基づいている、ということにしている。何かしら判明するところがないと、物語も彩ることができないからである。
 そして、四十年後に、退職した木戸が、再び河原町のジュリーのことに思いを馳せ、ある人と共に、古き良き京都を振り返るように流れてゆく。
 細かな京都の描写は、そのときの京都を知る者にとっては、たまらない魅力がある。手に取るように分かるその地図と店、そして通りの雰囲気。まだダイエーがあるころに、新京極六角辺りの風景がしばしば出てくるが、たいへん懐かしい。
 小説のストーリーはここでは記さないのであるが、本の魅力も伝えなければならない。京都を知っているならば、という前提でいうと、固有名詞が気持ちをくすぐるのは確かである。だが、時にやけに詳しく街並みを描写し続ける場面があることを、脚色めいたものとして受け取るならば、純粋にストーリーを楽しむことは十分可能であると思う。満遍なく土地勘を頼りにするような読解を強要するものではない、ということだ。
 ただ、そうした河原町の風景を読者の頭に思い浮かべてもらうためには、京都独特の街並みをこそ描写してほしかったように思う。つまり高いビルがないこと、店の入口は狭く、奥に深まっていること、従ってぱっと見には、屋台の出店が居並ぶような雰囲気で店が所狭しと並んでいるように感じられることなどを、もっと積極的に伝えてくれたら、と思ったのだ。そうすると、河原町のジュリーが歩く景色が、次から次へと背景の店を変えながら映し出されてゆくように、読者は想像しやすかったのではないだろうか。
 もちろん、駸々堂など、若干横に拡がる店舗もある。蛸薬師通りが、河原町から新京極までかなり太い道になっているが、蛸薬師と六角とが、新京極の辺りで断層のようにずれていることなど、不規則な通りになっている辺りは、先輩の山崎巡査長が語っていたかもしれない。かなり蘊蓄めいて京都の街中のことを語るこの巡査長の話は、京都のよもやま話として、読者の心にも残ることだろう。
 さて、自分の考えを語ることのなかった、河原町のジュリー。それを傍から私たちは、勝手に、こんなことを言いたかったのではないか、と無責任の想像する。そうして勝手に伝説をつくってしまうことになるのだが、世捨て人のように振舞った彼を、私たちは「河原町のジュリー」という「名前」で呼んだ。名前で呼ぶ、ということは、ひとりの人格として認めることである。いま「ホームレス」という一括りの呼び方で済ませることについて、私たちは猛省をしなければならないのではないか、と強く感じる。そこにいるのは「ホームレス」ではない。一人ひとり名前をもつ人であり、それぞれに人生をもつ人である。本書にも、ホームレスに暴力を振るう若い子たちの件が記されているが、私たちも実のところ、同様か、それ以上の暴力をやらかしているのではないか。そういうところへと目を転ずるためにも、本書はもっと知られてほしいと願うものである。




Takapan
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