本

『ユダよ、帰れ』

ホンとの本

『ユダよ、帰れ』
奥田知志
新教出版社
\1800+
2021.9.

 一読して、主題説教だと分かる。それは著者本人もあとがきのようなところで述べている。キリスト教の礼拝における説教、あるいはメッセージと呼ばれる聖書のお話においては、大きく主題説教と講解説教に分類できると見られている。後者は聖書に書いてあることを説明することを中心とし、前者はあるテーマに沿って聖書を引用しながら話すものである。どちらがよいとも言えないし、私は個人的に、これらの分類も便宜上のものだと思っている。
 著者初めての説教集だというのが意外にも聞こえた。認定NPO法人抱樸理事長として近年テレビや新聞などのメディアへの出演も多い。ホームレスの支援を長年続け、その住まいを斡旋するばかりでなくついに教会の一部にそのための住まいを建設した。ホームレスの人の権利の保護のためにできることは何でも行い、地方自治体や国にも訴え、掛け合う。弱い立場の人々のために出せる声はいくらでも出す。かといって、誰かを悪く言うようなことはしない。重度の障害を背負う人たちを数多く殺害した人とも面会し、その人を弁護はできないが、悪いのはその人だけではなく、社会における背景を見逃してはならないと強く言う。このようなことでよく知られるものだから、北九州の東八幡キリスト教会の牧師が本来の姿であるというのに、知られていない可能性もある。
 サブタイトルに「コロナの時代に聖書を読む」とある。2020年の四月、いわゆるイースターの礼拝から15回を、特にコロナ禍をテーマにした連続説教として位置づけ、メッセージを続けたものがまとめられている。緊急事態宣言が初めて布告され、自粛の強制という、意味の分からない社会になった時、教会もそれまでと同様には礼拝などの活動を続けて行くことがてきなくなった。幸いウェブからの連絡網がその前からつくられていたために、比較的スムーズにリモートでの礼拝参加は難しくない面があったという。教会に来る人も禁じていたわけではないので、何らかの教会生活は続けられていったと思われる。緊急事態宣言が出ようと、礼拝そのものをなくすことはできない。キリスト教会としては当然のことであるが、この時点で成り行かないところもあった可能性はある。それでも、礼拝を中止するなどいう表現方法は、私も断じてすべきではないと提唱していた。
 さて、肝腎の内容である。まずタイトルが気になるであろう。奥田牧師の説教題は、かなり考えて作られていると思う。ありきたりの題はつけない。おっと、なんだそれは、と思わせて引き込む魅力である。かといって、奇を衒っているわけでもないと私は思う。よく聞いていくと、そこに真実をしみじみ感じるという経験を、聴く者は得るだろうからである。ある意味で逆説を示すのである。
 思えば、初めて奥田牧師の説教を特別な集会で聞いたときのことは、忘れもしない。題は「イエスはアホや」だった。少し内容は違うが、本書にも同じ題の説教が含まれている。なんと不謹慎な、冒涜だ、と立派なクリスチャンが思うのは勝手だが、この言葉にこめられた真実というものは、聖書の神髄に迫る、というよりは聖書の伝えたいことそのものであるに違いない、と、聴いた後には思えるはずである。それどころか、それは冒涜だ、と蹴散らしたかった人は、福音書に描かれる律法学者やファリサイ派の人々と、完全に考えや姿勢が重なるというふうにしか、私からすれば見えないのである。
 ユダよ、帰れ。この意味は……と説明してしまうと、私は恐らく営業妨害をすることになるだろう。また、買って読む人に対しても、ネタバレというのは語弊があるが、楽しみを確実に奪うことになる。いや、楽しみではない。この説教から受ける感動を奪うのであり、さらに言えば、この説教から注がれる命を汚してしまうことになると思う。
 そう。奥田牧師の説教には、命を与えるという重要な使命がある。それは私の願いと同じだ。聖書の言葉は命の言葉だ。そして説教は、神の言葉を語り、神の言葉を受ける空間時間でなければならないと考えている。その言葉は、必ずやひとを生かす言葉であるはずだと理解している。その意味で、これらの説教には、ひとを生かすものがあるのだ。
 主題説教というと、語る者がテーマを決め、それに沿って聖書を縦横に引用する傾向がある。奥田牧師の場合もそうだ。だから、あることを述べながら、クリスマスの記事を引用したかと思うと、次の瞬間に復活のシーンの聖書箇所を開く。普通ならそんなに大胆にあちこちから引いては来ないものである。もちろん講解説教でも参照箇所を持ち出すことはするのだが、それにしても、この説教集においては、次から次へとてんでぱらばらの箇所から聖書の言葉が飛び込んでくる。しかし、テーマがブレないから、一貫性があることには違いない。もしかすると説教者の意思で考えたテーマについての考えを伝えるために、聖書をうまく利用したかのように思われるかもしれない。事実、稚拙な説教をする人の中には、そういう場合もあることは認めざるをえない。しかし本書に集められた説教に対して、私はそのように感じることはなかった。
 なぜか。もちろん私は何ら汗水垂らす活動をしているのではないから、奥田牧師とそのグループの人々の、足元に近づくような価値さえもないわけだが、それでも語るその言葉の真実について、つまり命を伝え、人を生かす言葉がそこから出ているという事実については、ひしひしと感じるからである。
 それから、聖書の解釈について、いろいろと教えられることがある。私もずいぶんとひねくれた読み方をすることがある。通り一遍の聖書のおはなしというものには、時折眉に唾をつけてきくようにしているからだ。本当にそうだろうか。それでよいのだろうか。さらに言えば、自分には違うように聞き取れることがある、自分は違う声を聴いた、と感じる場合があるからだ。だが、奥田牧師の前には、もっと唸らされることがあるのだ。
 これも、ネタバレの部類になるからあまり詳しくは言わないが、少し触れる。たとえばクリスマスの記事で、ヨセフは、マリアへの思いやりから離縁しようとしたとマタイの福音書に書かれている。だが本当にそうか、と奥田牧師は言う。それは冷たいやないか、と。その話を聞けば、確かにその通りなのである。また、ルカの福音書に、有名な放蕩息子の譬というのがある。放蕩の限りを尽くした息子を、父親が待ち焦がれた末に抱き留める、感動の場面である。もちろん父親が神を表し、息子が、罪を犯して悔い改めて神のもとに戻ってきた人間を表すということについては、誰もが見る通りだろう。しかしここに奥田牧師は、2人の会話がまるで噛み合っていないことを指摘する。だから、この息子の悔い改めによって父が息子を受け容れたのでは断じてないということを強調するのだ。悔い改め大好きなのルカなのに、である。
 こうした、ぐいと引き込む話は、なにも聖書の斬新な解釈だとか、これぞ真理の説だとかいうような態度で示すのではない。神学的には意味のない指摘かもしれない。学問的には到底認められないというような考えもきっとあるだろう。だが、これを聴く者には、何かがずんと刺さってくるはずだ。長年クリスチャンでいたとしても、いやだからこそ却って、聖書のここの意味はこうだ、と公式めいた理解で済ませてしまいがちである故に、聖書の言葉を死んだ記録としてしか用いていなかった者の心を掴み、もう一度活動させる力を、それらの言葉はもっていることを私は強く感じるのだ。つまり、それが、ひとを生かす言葉なのだと言うべきものなのだろうと思う。あなたの心を揺さぶる何かがある。あなたの命を、活性化させる力が、そこにある。
 この考えを信じろ、従え、そのように言うのではない。ただ、聴く者の心を生かすことができるに違いない。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(ルカ24:32)と目を開かれた2人が話した出来事が、いまここに再び起こることを信じて止まない。




Takapan
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