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『「ユダ福音書」の謎を解く』

ホンとの本

『「ユダ福音書」の謎を解く』
エレーヌ・ペイゲルス カレン・L・キング
山形孝夫・新免貢訳
河出書房新社
\2520
2013.10.

 新しい文献というものは、とにかく誰も研究したことがない、あるいは少ないわけで、世界中の研究科が色めき立つものである。その新しい文献が取り扱いについてデリケートで、ごく少数の人にしか見られていない、となるとなおさらであろう。
 この「ユダ福音書」というのは、古代からそれについての言及があるものの、実際の文献が見つかっておらず、幻の書と見られていた。それが、2006年、存在したことが発表されたのである。それは、1970年代にエジプトで発見されたパピルスであった。発掘後の保存環境によるのか、読めない箇所も多々あるようだが、おおよその文字は特化できているという。それはコプト語で書かれている。3世紀かそこらに翻訳されたものであろう。
 この資料をもとに、それが何を隠し持っているのか、二人の女性研究家が、ここに大胆な仮説を提示した。それは、殉教を祀り上げる、いわゆる正統派の流れに対して抵抗し、ユダというキャラクターを通じて、十二弟子を立てる正統派教会がいかに間違っているのか、それを主張したいのだという。
 根拠は二人の読解によるところが多く、多少は想像の上で解釈が展開されているような部分があるような気がしてならないのだが、それを学的にまとめあげる能力は私にはない。普遍的と称したカトリックの理解により編まれた正典としてに聖書は、その福音書において、まずマルコが十二弟子を批判的に描いていたが、それを受けたマタイとルカは、方針を転換し、弟子たちの権威を表現しようとした。こうして、弟子たちのイメージが正反対の方向に走って行くことになったのだと著者たちは言っている。
 派閥ないし抵抗勢力というものはいつでもあるだろう。現今の聖書にしても、反対の思想を厳しく戒めている記述が手紙の中にいくらもある。福音書すら、当時のユダヤ教への対抗だと見てよいだろうし、黙示録もまた、さかんに敵を明らかにしている。しかし、主流とならなかった理由はそれ相応にある。キリストという言葉を使いながら、明らかに違う思想を背景にしているとか、荒唐無稽な物語の中にキリストを位置させようとしているとか、現今の聖書の統一性と比較してどうみてもはるかに劣る解釈があるなどである。新しい史料が見つかったということで、それをあまりにもセンセーショナルに飾り立て、聖書は実は真実ではなかった、などと煽り立てるのは、精神思想の伝統に対する明らかな無知であるという場合が多々ある。今も、自分の考えた霊的世界の想像図を描き、その中にキリストを位置させようとする悲惨な著作家が金儲けをしているのを見ると、いつの時代にもそのような者がいたということは不自然なことではない。
 だから、おそらくこの新しい史料についても、当時の教会や聖書の成立や正典選択の中で、弾かれたものを比較対照する営みの中で取り扱われるというのが妥当な線であろう。意図はもうひとつ分からないが、二人の女性研究家という目を惹くこの本の著者たちの意図はどうであろう。ユダをあまりに買いかぶり、この文献をあまりに大きく取り扱い、こちらこそ真実で聖書は虚偽だと言うようでないのならいいが、と思う。
 むしろまた、日本人は、西欧の伝統部分を軽く見るか無知であるために、こうした新しい情報を過大に宣伝して本を売ろうとする傾向がある。心霊現象やオカルト情報を売り物にする心理とさほど違わない。
 このような種類の外典は、いくらでもあるのである。ペテロやパウロの名を付けた福音書や黙示録もきれいに遺っている。それらのうちに、聖書に関する伝説として受け容れられているものもある。ただ、聖書に対立するような思想を背景にもつものは、聖書を理解するために信頼されることはない。本物を知る人は偽物が分かるだろうが、本物を知らない人には、偽物がどれかは分からないものだ。この本は、ユダ福音書を訳出して資料として提供している部分があるから、そういうところを上手に利用したらよいと思う。しかし、その解釈や著者の方向性をすべて受け容れる必要はない。それだから、信仰を求める人にとっては、あまり読むには相応しくないとは言えるだろう。




Takapan
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