本

『日本宣教論』

ホンとの本

『日本宣教論』
後藤牧人
イーグレープ
\3500+
2011.1.

 読み応えがあった。情熱があった。
 日本に福音を広めるにはどうしたらよいか。どこの教会でも多かれ少なかれ考えていることであろうし、祈りの課題になっていない教会を探すほうが難しいだろう。
 だがどうして福音宣教が日本では実を結ばなかったのか。こちらのほうに視点を当てて検討している本やレポートも最近目立ってきた。やはりこの百五十年は、成功とは決していえないし、いえないままに過ぎていこうとしているのではないかという懸念、閉塞性が誰でも認めざるを得なくなったようなのである。
 だが、誰が知恵を寄せても、似たり寄ったりの意見しか出てこない。その煮え切らないありきたりの発想こそが、閉塞性をもたらしたのだ、と言われかねない現状である。
 そこへ、風穴を開けてくれるかのような本が、この本の意義なのであろう。
 著者の心のなかでは、これは上下二巻に相当するような構成であるらしい。しかし、ここへ一冊という形で成立した。私はそれでよかったのではないかと思う。
 とはいえ、前半は、うまく耳を貸す余裕がない人には、退屈であるかもしれない。というのは、教会や宣教そのものというよりも、ひたすら日本の近代史についての自説を披露するからである。戦争責任の問題から、アジア諸国における戦時中の情況の実に細かな説明が施される。視点がようやく変わったと思うと、今度は日本国内の事情が、その古代歴史から順を追って語られる。著者の得意なところではあるが、エンジンなどのメカニックな説明もある。そうしてやがて、開戦から敗戦を多方面から論じていく。そして、ようやく天皇制である。さらに、国家神道と、鎖国における宗教政策とが詳説され、戦争責任と天皇と神道との関係がまとめられる。
 日本の、とくにプロテスタント教会世界が、しばしば戦争反対の声を挙げる。戦争責任の問題を大きく取り上げ、天皇制への反対を叫ぶ。神道の復権の気配については激しく抵抗する。それぞれの活動には、意味がある。だが、果たしてそれでよいのか。それは適切なことであるのか。著者はそこに、とんでもない誤解や勘違いがあるのだと説く。根拠を一言で言えば、欧米の神学が唯一真理であるかのような捉え方で、フィルターがかかった状態で世界を見れば、バイアスがかかり、日本がすべて悪いかのように、いわば欧米の偏った味方を鵜呑みにした形で思い込むことになってしまっているのだ、というわけだ。  著者はこの辺りで落ち着いたように、キリスト教と聖書というレベルから、これまで扱ってきたことを不根拠付けようとし始める。こうして上巻が終わったことになる。
 同じ本ではあるが、以下は下巻である。
 日本文化をそのまま受け容れていく宣教があるのだ、という。それは、欧米一色に染められて傾けられた見方からは分からないものだという。そもそも聖書というアジアベースの宗教が、ヨーロッパの色に塗られてしまったところから、日本にキリスト教は入ってきた。歴史は欧米の神学に聖書を染めてしまってきたのだ。しかし、聖書をそれ自体で見るとき、日本文化はむしろ聖書本来の世界に近いし、また聖書が、文化を破壊して割り込むような宣教を根拠づけてなどいない、というふうに、聖書を参照しながら、著者の思い入れが論を成していく。それは、ほうっておいても共同体をつくる日本文化であり、教会においてのみ共同体を築きたい欧米とは教会観がまるで違うという点を認識するところから始まるのである。
 仏教が日本でどう成立していき、元来の仏教からどう変わって定着したか、というふうな視点取り混ぜながら、日本の150年の宣教史を振り返る。そこには、日本文化がもっている、共同体や師弟構造も関係していたのだ。
 上下巻の内容を併せて500頁に達する大部であり、横組で1頁あたりの文字数もかなり多い。その最後の70頁を用いて、それまでより背景的根拠を掲げないままに、著者自身の思いを述べると断りつつ、吐き出すように考えるところを述べている様子が見られる。そこにはまず「教会」という呼称の抱える問題点が指摘され、「先生」の語もまずいという。聖書に、イエスが「先生と呼ぶな」と言っているから、というような単純な理由ではない。著者のもつ日本文化と宣教の歴史とを踏まえた形で、深い洞察によりまとめられた意見である。さらに、教派や教会員、祖先祭儀などの日常的な問題を、欧米神学が否定したような形でなく、聖書をたしかに見つめたまま論じていく。いや、著者は論じているというというつもりではないだろう。どんどん、自分の生涯をかけて探してきたひとつの道を、一気に紹介しているのであろう。役員についてなどの実際的な教会運営に関することも含め、説教のあり方についても意見が述べられる。また、教会に人が来るようにするための、具体的な方法や提案も取り急ぎなされる。しかし、これが慌てたふうではないところがいい。
 そういうわけで、私が何をお勧めしたいかというと、この最後の70頁である。極端に言えば、さしあたりこの最後のところだけを読んでいくだけで、今の教会を改革する、あるいは現状を打破するためのヒントが、ふんだんにあると思うのだ。教会の将来を考える牧会者や教会役員、また思想的にも教会運営的にも教会に重荷をもっている方々は、まずここだけお読みになったらよいと思う。著者は牧会経験もあり、アメリカでの神学の学びも深い。英語の文献についても私たちに真似のできないくらい数多く接している。素人の思いつきでなく、質実ともに精一杯取り組んできた人生から得られたものを総決算するかのように、提示しているのだ。まずここに耳を傾けるのが礼儀であるようにも思うのだ。
 そして、私たち次の世代の者が、これを受け止めて、大いにヒントにしながら引き継いでいく必要があると考える。かなり普通の論議とは違うが、検討の価値がある。いや、検討しなければならない。欧米の方法で150年止まっている中で、たとえば南米やアジア諸国におけるように、福音をその国のやり方にいくらかでも応じた形で捉え、伝えていくというやり方に変える意味は、ない、などとは決して言えないはずだからである。




Takapan
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