本

『ジャーナリズム崩壊』

ホンとの本

『ジャーナリズム崩壊』
上杉隆
幻冬舎新書089
\777
2008.7

 手塚治虫は、医師でもあった。だからこそ生まれたであろう『ブラックジャック』の中で、大病院の回診の様子を描いたところがある。それは大名行列に戯画されていて、先頭に医長が行き、週に一度しか診ない患者にいきなり腕の切断を言い渡すようなシーンだったと思う。他の医師たちは、ただその横でご機嫌をとるばかり。面白いのは、行列であるから、後ろにだらだらと続く医師や看護師たちが、先頭がいまどこにいるのか知らずに、はるか後ろの廊下に並んでいる。「どうせおれたちはまともに顔も描いてもらえないのだ」みたいな台詞が笑わせる。
 記憶なので、あやふやだが、印象に残っている。手塚治虫だからこそ、描けたのかもしれない。
 さて、気骨のジャーナリストである著者は、かつてニューヨーク・タイムズ東京支局で記者として鳴らし、現在はフリーランスのジャーナリストとして活躍している。そのアメリカ流の取材方法は、日本の取材とは根底から異なるものだから、しばしば、あるいは悉くもめているらしい。
 その著者が、とくに日本の記者クラブ制度について批判をしているのが、この本である。新書一冊初めから終わりまで、おそらくそのことに終始していて、いわば同じことばかり書かれていると言ってよいと思う。
 恐らく、本の初めのほうで告げられているように、欧米と日本とでは、新聞記者という肩書きの示すものが、おそらく違っていることが、食い違いの大きな原因ではないかとも見られる。新しい情報を横流しにするのが日本の新聞社であるのに対して、欧米ではそれは通信社の仕事であって新聞社は速報をもたらす役割をもつものではなく、ありきたりとは違う視点を以て意見を掲げるためのものであるというのだ。
 だから、日本の記者クラブという、本来もしかすると報道の自由を得るために明治時代に結束した組織であったのかもしれないが、今はなれ合いの仲良しクラブに過ぎず、親方日の丸の流す大本営発表をただありがたく右へ倣えで受け取り伝えるためのものになっている、ジャーナリズムもどきのあり方が、「崩壊」そのものである、と断ずるのであろう。
 それは、私が思い出した『ブラックジャック』の回診のような姿である。記者たちは、ぞろぞろと後ろをついてあるき、権威をよいしょするだけで終わっているようなものである。
 もちろん、批判を全くしないなどという新聞社はない。だが、その批判も一定の約束事の中で認められた批判でしかないし、真実のためとは言い難い。その証拠に、自社に対して、あるいはその報道に対して、批判することのない実情が挙げられている。記者がジャーナリストではなく、会社員であることも、その背景にあるかもしれない。その辺りの細かいことは、ぜひ本書をご覧戴きたい。
 とくに、ニューヨーク・タイムズの、記事の検証欄の存在は、そんな当たり前のことがどうして日本の新聞にないのか、とたしかに常々不思議に思うほどの指摘だった。訂正記事は、できれば目立たないように隠れたところにこっそり載せ、「一応訂正しときました」としかしない。元の記事は相当目立つ見出しと共にかなりのスペースをとって書かれておいて、どうしてもそれが間違いであったと認めなければならなかった場合には、幅1cmの隅っこの記事。これで責任を果たしたなどというのであっては、誤認された側はたまらない。検証欄は、どうしてそのような誤報が生じたのか、原因を素早く探り、発表するというのだ。そういう欄が元々あり、大きな誤報の場合には、紙面数頁にもわたるという。しかも、ニューヨーク・タイムズを震撼させた誤報事件のときにも、一週間あまりでその検証がなされたという。日本と比較してあまりにも速い。
 虚偽に対して徹底した倫理をもっている。嘘も方便でなれ合いの中にいるのとは違う。私には至極当たり前のことのように見える。
 著者の思い描くジャーナルの世界が、いきなり日本に実現するとは思えないが、この問題は、そういう虚偽に対する倫理観などの背景も含め、日本人の物事の捉え方に大きく関わっているとも考えられる。ジャーナリズムのみならず、小さな町内会や学校PTAなど、どこにも満遍なく存在するあり方と重なっていると思うし、すべて同じ原理で動いているように感じられてならない。
 なにもアメリカをよいしょするつもりはないが、報道というものに対して思い描く私の考えは、著者に共感するところが大いにあると思った。




Takapan
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