本

『「弱い父」ヨセフ』

ホンとの本

『「弱い父」ヨセフ』
竹下節子
講談社選書メチエ395
\1575
2007.8

 着眼点といい、論じ方といい、その知識の豊富さといい、主張の明確なことといい、著者はすばらしく頭の好い人だと伝わる。索引まで設けてある。フランス在住だというのも、そのあたり関係しているのだろう。
 カトリック研究が専門でもあるようで、その方面の造詣も深い。となると、この聖人ないし福者といった歴史もお手のもので、カトリックの歴史を十二分に伝え、背景事情の根拠として説得力をもって語ってくる。
 内容に触れよう。話題は「父性」である。サブタイトルが「キリスト教における父権と父性」となっている。論文的な響きがある。いや、たしかにそのようなあり方だ。
 ご存じイエスの父ヨセフという人は、二つの福音書にはっきりと記されている存在でありながら、それ以上のことはよく分かっていない。歴史上もたらされる伝説も、かなり後の世のものであるから、創作に近く、実のところヨセフ像というのは、想像の域を出ていない。
 しかし、このヨセフは、たしかにイエスの家族である。血がつながっていない設定になっているとはいえ、イエスの父親である。しかも、イエスが父と呼ぶのは天の父なる神であるという錯綜した構造があり、聖書後の歴史においても、マリアは様々な理由もありもてはやされた割には、ヨセフはひっそりと陰に隠れていた。そもそも、受難のときにマリアは登場するが、ヨセフは登場しない。ヨセフの年齢すら、定かではないのだ。
 このような中で、歴史は、このヨセフを聖人にまで持ち上げていくことになる。そこには、人間の様々な思惑があり、社会的背景もあった。それを説き明かしていく。しかも、この本はそれだけに終わらない。そこに、父という存在がどうであるのか、つねにスポットライトを当て、現代の父親像へとつないでいく。
 たんに雷親父とか親父の復権とか、そんな俗っぽいことではないのだ。そもそも父親とは何故に父親であるのか、ということも、この本は明らかにしている。母親が父親だと呼び出されることにより、父親となるのである。
 ヨセフの生き方は、自分を主役としない生き方である。いわば「弱い父」である。自分探しだとか、自分は人生の主人公であるとか、そういうほんわかとした幻想をいつまでも追いかけて地に足がつかない傾向すらある現代に、著者は鋭く批判の矢を射る。はっきりと、このヨセフから学ぶことがある、と言うのである。
 その上で、最後にキリスト教とイスラム教における、ヨセフとは逆の「強い父」がなぜ成立しているのか、もはっきり示す。もちろんのこと、一神教だからという理由ではない。そのような、日本で時折見られる俗説は、迷惑な誤解であると著者は一蹴する。私は、ヨーロッパとアメリカのキリスト教の違いは、なんとなくイメージしたり、ものの本で理解していたりしたつもりだったが、この本が、それをカミソリの如く鋭く告げてくれたことに驚いている。
 蛇足かもしれないが、これだけの熱い論評の最後を飾るのは、一枚の絵である。カラヴァッジョの絵を解釈しつつ、そこに自分の主張を象徴させるかのように、余韻を残して論が閉じられていく。最後の最後まで、鮮やかな手法であり、知識的にのみならず、芸術的にも、私はいたく感動した。
 書くなら、このような本を著したいものだ。




Takapan
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