本

『[新訳]ジョニーは戦場へ行った』

ホンとの本

『[新訳]ジョニーは戦場へ行った』
ダルトン・トランボ
波多野理彩子訳
角川新書
\1360+
2024.9.

 最近はテレビで放送されなくなった。かつては、日曜洋画劇場で繰り返し放送されていた。淀川長治さんの、そのときの解説はもう一度聞きたいものだ。
 子ども心に、鮮烈な印象が残っている。手足がなく、顔もまともな形で残らず、視覚も聴覚も奪われている。戦場で負傷した若い兵士が、「肉の塊」としてそこにいる。外部の人は知らないが、当人は明確な「意識」がある。想像力というものがあるならば、この映画を観て、戦慄を覚えざるを得ないだろう。子どもの私にも、それがあったのだから。
 その原作本を、私はずっと読んだことがなかった。たぶん、なかった。自信がないのだが。確か文庫にあったから、どこかで読んだかもしれない。今回手に取ったのは、角川新書が新しい訳で挑んだものである。50年ぶりの新訳である。  原作では、映画とは異なり、兵士の独り語りに終始する。徹底的に一人称である。自分の状態に次第に気づいてゆく。しかし意識ははっきりしている。頭の中で思考実験をするしかないような日々。死にたいと思うが、死ぬこともできない。
 砲弾にやられたことは思い出すことができたが、どうして生き延びたのかは理解できない。その上で、考えられるありとあらゆる可能性に思いを巡らす。そのすべてがここに文字となって綴られている。
 思い出す。恋人との短い日々。そこにドラマ性があるといえばあるのだが、頭の中での回想に過ぎない。映画ではいろいろ表現できるが、本で読むと、ただの観念が流れてゆくだけでしかなく、よけいに空しい気が漂ってくる。
 日付を数えようか、と秒数をひたすら数えようとするが、それを延々とやってゆくこともできない。退屈と言えば退屈だ。とにかく意識だけはあるのだ。何も感じないし、誰かとコミュニケーションができることもない。自殺を試みようとするが、できない。絶望しかないような情況であるが、ひたすら思い出される過去のことを考え続ける様子が綴られてゆく。
 看護師が身に触れること、あるいは歩く響きが微妙に伝わってくること、それは分かる。確かに外部と接触があるということを、日に何度か経験するのだが、如何せん、こちらの考えていることを伝える術がない。そもそも、医師も看護師も、自分が何かを考えているのだということを、想定していない。ただの肉の塊で、生命が維持されている物体であるようにしか見えないし、反応しないのである。
 そこで、自分が思考できるのだということを伝えることを考えていたが、何年かして気づいたのは、モールス信号だった。比較的知られているメッセージ「SOS」を、頭を動かせる力をふりしぼり、枕を叩くようにして伝え始めた。「・・・−−−・・・」というものだが、果たしてそれがきれいに発されたのかどうかも分からない。本人は伝えているつもり、というだけだったかもしれない。この様子に気づいた医師はどうしたか。そう、痙攣が起こったとしか考えない。意識のあるものとは見なしていないし、第一、言語だという心づもりはない。鎮静剤を打つのである。こうしてしばし、また意識が遠のくのだった。
 あるとき、心優しい看護師が現れて、胸に文字を書くことで、メッセージを受け取ることができた。天にも昇る思いだった。あまりにもすばらしいシーンなので、ここですべてを記すことはやめておく。
 ただ、物語は特に後半で、聖書にまつわる話が多くなることだけは、ここで押さえておきたい。キリスト者でなかったら、この映画や本について論評する人がいても、この聖書の件にはさして注目しないと思われるからだ。
 彼は聖書を通読したことはないらしい。だが、第一次世界大戦の頃、アメリカは信仰の点では非常に満たされていた時代だったようだ。親が、聖書の物語を子どもたちに幾度も語る。クリスマスには、信仰にまつわるエピソードがいっぱい与えられる。そのため、彼は時折、聖書の物語を自分でひたすら語るのだ。クリスマスの情景も、聖書に従って、楽しそうに思い出し、自分の中で物語を展開してゆく。
 信仰があるとか、信仰が強いとかいう前に、聖書がひとを形作っていた時代があったことを、よく伝えていると思う。自然に、聖書が自分の精神をつくり、心の中にあたりまえのように収まっているのだ。
 彼に希望というものがあったようには思われない。だが、彼は生きている。彼は生きてゆく。生きるしかない。絶望しかなかったかもしれないが、決して最後まで発狂していない。
 このモールス信号に、気づかれることがあったようだ。医師たちは問う。君は何を望むのか。彼は答える。自分を見世物にして、金を得たらいい。コミュニケーションが成立した。だが、この要求を医師は拒む。
 彼は悲しんだ。否、それよりも、最後は怒りで物語の幕を閉じる。戦争を計画し、戦争を起こし、若者を戦場に送った「愛国者」たちへ、怒りをぶちまける。もし今度銃をもつことができたら、その銃はおまえらに向けて撃ってやる。
 反戦のメッセージは、あまりにも強烈だった。この本はアメリカで、1939年に発表された。第二次世界大戦が始まったときである。やがて発禁処分を受ける。あの同時多発テロのときに、ジョン・レノンの「イマジン」が殆ど放送禁止のような目に遭っていたことは、私たちの記憶に新しい。アメリカもまた、そういう面では自由ではないのだ。
 本書は、その後解禁されたものの、朝鮮戦争のときには再び発禁となるなど、戦争に関わった時代に、抑圧を受けているという。
 原作者ダルトン・トランボは、赤狩りに遭い刑務所に収監されるなど、これまたアメリカの裏の面に翻弄されるが、現場に復帰すると、多くの映画の脚本を手がける。「ローマの休日」や「栄光への脱出」「スパルタカス」「パピヨン」など、話題作も多い。そして自ら監督となって、この「ジョニーは戦場へ行った」も映画という形にした。
 なお、最初の訳の早川文庫では、『ジョニーは銃をとった』と、原題のままのタイトルだったらしい。映画化するときに、映画のタイトルのために「ジョニーは戦場へ行った」と変更したのに合わせて、文庫の題も映画に揃えて出版したらしい。
 それから、主人公の名は「ジョー」である。どうしてタイトルが「ジョニー」なのか。それは、この物語の舞台となている、第一次世界大戦のときにアメリカで弊誌を募集するときのスローガンが「ジョニーよ銃をとれ」だったことに基づくらしい。反戦の意味をこめるとき、この「ジョニー」を逆手にとったのである。
 百年前の出来事の物語である。私たちは、いままたこれを正面から受け止める時が来ているのではないだろうか。たぶん、角川書店も、その必要を覚えて、この新書による書き下ろしというという形で、世に問うたのではないだろうか。いま読む必要がある、というその意気込みに、私は少しでも応えたいと思っている。




Takapan
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