本

『ヨハネ福音書のイエス』

ホンとの本

『ヨハネ福音書のイエス』
小林稔
岩波書店
\2730
2008.7

 出版界の事情通でない私は、近年こうまで岩波が聖書関係に情熱を注いでいる訳が分からないでいる。ついに「岩波訳」と呼ばれるまでの聖書を世に問うただけでなく、ナグ・ハマディ文書をはじめ様々な、いわば地味な資料をどんどん送り出している。その点数たるや、半端なものではない。それは信仰者向けの、というよりは、学問的な立場からと言ってよい姿勢には違いないが、学問的に正確さを示してくれるということが、信仰者にとって障碍になるということは、基本的にはないだろう。信仰たるものは、学問が正当に明らかにしていく限り、それが信仰と一致していくものであるというふうにも、信仰しているのではないかと思われるからだ。
 それはともかく、その岩波訳のヨハネによる福音書を翻訳したのが、この本の著者である。翻訳の裏話というものではないが、その作業の背後に感じたことや、翻訳の中でますますまとめあげられていった自分のヨハネ観などが、テーマ別に形成されていったものが、この本であろう。それは問いに始まり、それをヨハネ伝各所からのつながりで解き明かしていくという形式を守っているため、文学的には退屈ではあるものの、読者としての立場から言わせてもらうと、非常に内容を把握しやすく、読みやすい。
 私は必要と興味とがあって購入し読み進めたが、黄色のマーカーを使って丁寧にマークしながらも、気持ちとしては一気に読めたという印象である。
 著者の信仰も最初に明らかにされているので、それが全体を支配していることもよく分かるし、なにしろこの本そのものが学術的な編集に従って終始動かされているとは限らないわけで、その気配は十分にあるものの、もっと自由な信仰の上の理解というものも、全体を覆っていることは間違いないものと思われる。
 復活のイエスが共にいる、というのもさることながら、読者へヨハネ伝の著者が直接語りかけてくる、あるいはイエスが語りかけてくる、という体験を可能にする書き方がなされている、というのである。いやはや、それはもう信仰のイロハではあるに違いない。逆に言えば、それなしで信仰ということは、ありえないのである。ただ、ヨハネ伝の著者が、それを計算してか、本能的には、あるいはただ霊的に教えられるままにそうしているのか分からないが、読者とイエスとを引き合わせるのが、やたら巧いのは確かである。イエスがニコデモに語る途中から、どういうわけかニコデモは行方不明となり、ひたすら読者にイエスの恵みを滔々と伝えるくだりになるなど、随所でこうしたことがなされている。それは、ヨハネのクリスチャン共同体へのメッセージがこめられているからだ、と私は感じているが、この著者の場合は、それにも気づきながらも、どうしても読者とイエスとの関係を密にするためという、自分の信仰体験の原理を根本に置こうとする傾向がある。それはそれでよいと思う。
 とはいえ、生半可な聖書の知識や研究でたんなる感想を述べたというものとは違い、様々な資料と学説を踏まえて語られていることなので、ひとつひとつの論拠についても、学問的に十分参考になるし、参考にしなければならないと思われる。すでに『聖書を読む 新約編』が、この岩波訳の翻訳委員会の委員たちによって、どこか裏話的に感想を集めたものとして出版されているが、どうもいろいろな人のいろいろな声の断片的な寄せ集めのように聞こえることがあるかもしれない。じっくり、著者という人の人柄に出会わせてくれるのは、この本のよいところである。
 そうか。ヨハネが企図したのも、そのような形で、イエスと読者が出会い、心で結びついてくれることだったのかもしれない。だがそのヨハネ集団は、理想通りには事が運ばず、分裂から消滅に至ったようだと著者は言う。むしろ理想通りではなかったからこそ、理想を掲げていたのかもしれない。世の中、そういうものである。
 教会組織や権威に頼らず、一人一人がイエスと出会ってイエスに従っていくという、ヨハネが示した信仰の理想は、私たちの時代にも、きっと訴える力をもっていることだろう。その点で、著者の切なる願いもまた、私の心に響くものがあったのである。
 なお、最後に申し添えておくが、索引がなかなか立派であった。このあたり、学術的な癖なのかもしれないが、ちゃんとツボを押さえてあるという、好印象であった。




Takapan
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