本

『襄のライフは私のライフ』

ホンとの本

『襄のライフは私のライフ』
本井康博
思文閣出版
\1900+
2014.5.

 新島襄については日本の第一人者だと言える著者。それは、知識があるとか仕事でやっているとかいうものとは違い、心から惚れている、ということを意味するものと思ってよいのではないか。しかし、それは神格化するとか、信奉するとかいうものとは違う。ただ好きであり、魅力を覚えるのは間違いないのだが、新島襄は神ではない。著者自身がキリスト教信仰をもち、その角度からまた新島襄の信仰を捉えているからなのである。
 当然、その研究は、妻の八重にも向かっていた。ただ、八重については一部の研究家のほかには殆ど知られることがなかったし、知られているのも看護活動についての側面、あるいは後のスキャンダルなどといった方面が多く、その詳しい生い立ちや人間性について、人口に膾炙するというところはかつてなかったのだった。
 それが、2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」により、百八十度変わった。同時に、研究者としての著者の生活も一変した。
 NHKドラマの時代考証を、とくにその京都について担当することになり、NHKとの打ち合わせや質問に忙殺されることになる。しかし、それを苦にする著者ではない。むしろ喜びとしているかのように見える。
 この本は、著者が集大成のように出し続けている新島襄研究の書の中の一冊に位置されるであろうが、一風変わっている。「新島襄を語る・別巻」の扱いとなっているわけだが、それは、NHKの「八重の桜」にまつわる話題で終始しているからである。
 この大河ドラマにより、著者は各地から迎えられる。講演依頼が多数舞い込み、全国各地へ足を運ぶ。福島でも、安中でもそうだし、教会という場における講演もある。学校関係もあり、もちろん母校の傘下にある同志社の子どもたちへの話というものもある。それらが集められた本なのだ。
 だから、時に重複する説明もある。が、それは思うよりは少ない。様々な角度から語られた講演原稿が、その都度別の内容を、別の色合いで語られる。実に多彩な紹介で舌を巻く。いや、それが仕事なのであるから、と言えばそれまでなのだが、これほどの深い内容と知識をもち、また分かりやすい説明方法があるのか、と驚くわけである。教会の説教もかくありたいと思う。
 たんに、ブームに便乗して本を出しているわけではない。この本はむしろ、一連のブームが沈静化してその最後を飾り出て行くものだろう、とも記されている。そしてこれは裏情報的な響きの内容も多数扱われているのであるが、何も暴露本というものでもない。要は、ドラマというものは創作だ、ということである。つまり、歴史研究家としての著者としては、ドラマの中の何が嘘で何が事実であるか、そこのところを知る唯一の人間として、それらの情報を読者一般に提供しよう、としているかのようである。これは大切なことだ。テレビだけを見た人は、あれが歴史の事実かと思い込んでしまう。あるいは、用心深い視聴者は、どうせ創作だろうなどと言う。だが、著者はたぶんこう言うだろうが、「なかなかうまく嘘をついている」ようなのである。その点、いろいろ不満もあるだろうが、人柄だろうか、攻撃的ではなく、番組制作者の苦労や学びを褒めるところも少なくない。しかし要するに、この後何十年にわたり、嘘が真実のように見なされていくことについては、歴史家としては我慢できない。そこのけじめをつけよう、というのである。
 そういうわけで、この本は、「八重と桜」を見た人には思う存分楽しめる。あそこはああだったのか、あの裏にはこんなことがあったのか、そして史実はこうだったのだ、などと理解が深まる。ドラマの中にもたくさんの真実がある。また、脚色もあるし、存在しない人物もいたりする。これらを区別して理解することにより、本当の新島襄と八重の姿とその業績や価値が評価できるものとなるに違いない。著者はそれらを買いかぶることもない。冷静に、歴史と付きあわせているからこそ、この本の内容に信頼がおけるのである。
 なお、ドラマ制作決定の段階で、著者は、新島襄にはオダギリジョーがいい、とオヤジギャグのように言っていたのだという。そう、それが本当になったというわけで、そこでは私も笑い転げてしまった。
 本井先生を知る一人として、お元気で活躍されている姿を垣間見て、うれしく思った次第である。




Takapan
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